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こんにちは、むるまです。
2020年の春。
世界の一部から始まった疫病が世界中に広まり、誰もが不安で落ち着かない日々を過ごしていたあの頃。
わたしは、いくつかの本を読んでいました。
ひとつは、東京に行ってしまった同期に貰ってから、ずっと放置していたゾンビ小説。
WORLD WAR Z(上) (文春文庫)
中国の奥地で発生した謎の疫病が、急速に広がり全世界でアウトブレイクする……という、どっかで聞いたような展開が描かれるゾンビ小説。
ものすごくB級なものを想像していたのに、パンデミック物としても軍事シミュレーションとしてもよくできていて、いい意味で予想を裏切られました。
全体としては、インタビューからなるドキュメンタリーの体裁を取っているんだけれど、不安や危機に直面した個々人のドラマや群衆心理にはリアリティと説得力があって、今の世界に照らして色々と考えてしまったり。
これをくれた当時の友人は、まさかパンデミックの最中に読まれるとは思ってなかっただろうなぁ。苦笑
もう一つは幼い頃、寝る前に読んでは眠れないくらい夢中になった児童書。
モモ (岩波少年文庫)
小学生の頃は、不思議でワクワクする冒険に夢中になって一気に読んでしまったけれど、大人になって読み返すと、ここに込められた風刺や批判、そして哲学は、時間をかけてじっくりと噛みしめるべきもののように感じました。
時間と時間どろぼうというモチーフを軸にした物語だけれど、ここに登場する「灰色の男たち」は、人間社会の様々なところに息を潜めている、人類の普遍的な危機を表している気がします。
灰色の男たちを生み出したのは人間自身で。そしてきっとそこから解き放ってくれる「モモ」も……きっとその危機に立ち向かうには、私たち一人ひとりが、自分の中の『小さいモモ』を見つけてあげなきゃいけないんでしょうね。
他にも、様々な物語を紐解いたり、むかし読みあさった哲学書を読み返してみたり。
そんな中で、取り分け心の芯を強くしてくれた物語がありました。
そう、ムーミン童話です。
2022年2月現在。
また、この童話を紐解き、心に刻み直すときが来たような気がしています。
だってトーベ・ヤンソンその人は、戦時下を生き抜き、反戦への思いを込めて、この物語を紡ぎ出したのですから。
以下の文章のほとんどは、2020年5月に書いたものです。
本当は、全面的に書き直そうと考えていましたが、読み返してみて、敢えてそのまま、2年前のわたしを残すことにしました。
お付き合いいただければ、幸いです。
ムーミン童話の世界
さて、「ムーミン」というと、皆さん何を思い浮かべるでしょう?
様々なグッズにもなっている、あの個性的なキャラクターたちでしょうか。
中には、幼い頃にアニメで親しんでいた方もいらっしゃるかもしれません。
でも個人的にはやっぱり、一番身近に感じていて、心のふるさとみたいにいつもそこあるのは、原作小説です。
日本版のアニメの可愛らしい雰囲気に比べると、どこか暗くて恐さを感じさせる原作の挿絵。
全8巻+1巻からなる物語では、この絵が写し取った空気の通り世界は楽しいばかりではなく、恐い落とし穴に満ちています。
登場人物たちは、 シリーズの最初の方では命の危機に。そして後の方の作品では、命だけではなく自分自身を見失うような内的な危機に、度々晒され、途方に暮れます。
けれどそれと向き合うキャラクターたちは、必ずしも英雄的だったり賢かったりするわけではありません。
素朴でちょっと鈍臭くて、でもその心根には、深い愛情を持っている。
私たちや、私たちの周りにいる誰かに似た弱さやずるさを持った彼らが、泥くさくもがきながら自分なりの道を見つけていく姿は、ともすれば自己批判に絡め取られそうな心を、いつでもあたたかく包み込んでくれます。
私にとっては、いままでも折にふれて読み返してきた作品ですが、いまだからこそ、改めて強く感じることもたくさんありました。
以下はそんな私の、偏りまくりのご紹介です。
感情に素直であるということ
ムーミン童話を読んでいると時々、キャラクターの言動にぎょっとすることがあります。
たとえば『ムーミン谷の彗星』で、ムーミンがスナフキンからはじめて「スノーク」という種族について聞くシーン。
(スノークのお嬢さんは、日本のアニメでは「ノンノン」や「フローレン」と名前がつけられている、ムーミンによく似たガールフレンド)
色々な色をしていて、興奮すると体の色が変わるという、ムーミンにない特徴を持っているスノーク。
けれど姿かたちはムーミンにそっくりで、だからスナフキンは「きみの親類に違いないぜ」と言います。
それに対して、「そんなやつと、親類なもんか」と怒り出すムーミン。
ムーミンたちは白一色なので、色が変わるような変なやつと一緒にされたくない、という気持ちが強かったのでしょう。
その後も、お嬢さんは全身をやわらかい綺麗な産毛に覆われていて、前髪にブラシをあてているんだ、とスナフキンが続けると
「ばかなやつだなあ」
とにべもない返し。会話を終えてからも気持ちを治めかねたように、
「女の子は、みんなばかだよ」
と重ねます。
ムーミン童話ではしばしばこんなふうに、「え、何も知らないのにそこまで言っちゃうの?」「ちょっと感情のままに振る舞い過ぎじゃない?」と感じるような場面に遭遇します。
恐がっていたと思えば喜んで走り出したり、いばり散らしていたと思ったら怯えたり、泣き出したり。
キャラクターの言動はある意味短絡的で、表情はページを繰る毎にどんどんと変わっていって、ホント、忙しいばかり。
でも彼らは決して、底意地が悪かったり、やさしさに欠けているわけではありません。
困っている人は当たり前に助けてあげるし、あまり好いていなかったはずの相手でも、気の毒な話を聞けば同情して、いつの間にか喜びや悲しみを共にするようになっていたりします。
先のスノークのお嬢さんに対しても、ムーミンは、お嬢さんが遭難したかと思えば心配し、お嬢さんの無事を知っては喜び、最後にはお嬢さんを窮地から救って、甘いことを言ったり、格好をつけてみせたり。
気づけばすっかり、お嬢さんに夢中な年頃の男の子になっていました。
新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)
ムーミン童話の1作目(でも本当は2作目)。
地球に彗星が向かっている、という危機を知って、ムーミンは友達のスニフとおさびし山にある天文台に向かいます。スナフキンやスノークたちと出会う、最初の作品。
世界の終わりに恐怖するムーミンたちの様子は、トーベ自身の戦争体験に基づくものではないかと言われています。
彼らを見ていると本当に、良くも悪くも、自分の感情に正直で素直なんだなぁ、と感じます。(勿論中には、感情に素直になれないことで苦しんでいるキャラクターもいますが)
そして、 自分にとって馴染みがなかったり、脅威になり得る何かを「恐い」「気持ち悪い」と感じて遠ざけようとする心の動きは、決してそれ自体が邪悪なものではないんだと気づかされます。
自分と異なる見た目に驚いたり、よく分からないものを薄気味悪く感じたり、攻撃されたと感じれば、怒りや恐怖を覚えたり。
こうした情動は、危険から自分を守るために私たちの脳とからだが作り出してきた、生理的な反応です。
社会で生きる上で、望ましい言動はあるでしょう。
尊敬し、憧れるような考え方、振る舞い方もあると思います。
でもそれは、「こう感じなきゃいけない」「こう思わないのは人でなしだ」なんてふうに、自分の心を否定して押さえ付けなきゃいけないということではありません。
現代のように、批判……というより非難の色濃いニュースや、SNS投稿に触れる機会が多い環境では、知らず知らず、自分の感情まで規定されてしまうような。
そこから外れたことを思うのが間違ったことであるような気分になることもあるかもしれません。
でもそうやって、自然と湧き起こった自分の感情まで否定し続けていたら、心は疲れてしまいます。
空腹や眠気、暑さや寒さを感じるように、喜んだり、怒ったり、悲しんだりする心の動きも、私たちのからだと結びついた生理現象です。
それを抑えつけるのは、決して健康的なこととは言えません。
『ムーミン谷の仲間たち』という短編集には、ニンニという女の子が登場します。
ニンニは、全身が透明です。生まれながらに透明だった訳ではありません。
一緒に暮らしていたおばあさんから毎日皮肉を言われておびえ続けて、「透明になりたい」と願ったことで、いつの間にか声も姿も、そして感情もなくしてしまったのです。
怒ることも笑うことも、遊ぶことすら忘れた彼女は、ある日ムーミン谷につれてこられます。
ムーミンたちと日々を過ごすようになり、次第に怯えが消え、少しずつ姿を取り戻していって。
そしてついに、怒ることもできるようになったとき、一番最後まで透明なままだった顔を、彼女はやっと取り戻すのです。
新装版 ムーミン谷の仲間たち (講談社文庫)
ムーミン童話の6作目。
全部で9篇の短編が収められた、シリーズ唯一の短編集。
ムーミンやスナフキンといったお馴染みのキャラクター、ニョロニョロの秘密などが描かれた楽しいお話もありますが、ムーミン童話の中でも取り分け、生き辛さを抱えた人たちが多く描かれた作品でもあります。
感情を殺すことは自分を殺すこと。
度を越せば自分すら見失ってしまうことになると、トーベは警告しています。
でも勿論、何でもかんでも心のままに振る舞えばいい、と言いたいわけではありませんよ。
『ムーミン谷の彗星』の作中。
彗星を観測しにおさびし山を登ったムーミンたちは、途中で崖から岩を転がす遊びに興じます。
谷底に反響する大音響に興奮する内、調子にのって大きな岩を落とそうとしたことで、巻き込まれて危うく命を落としかけて。
そうして危うく難を逃れてから、ムーミンは唐突に「ぼくたち、ばかなことをしたぞ」と後悔し始めます。
「大失敗だ。あれは人ごろしだ。あの石が、スノークのお嬢さんの頭にあたったら」
もしも。
考えなしの自分の言動が、誰かを傷つけてしまったら、それは相手にも、自分にとっても不幸なことです。
そうした後悔をしたくないから、私たちは知識と判断力をつけ、理性的に行動することを教えられるのでしょう。
けれどそれは、自然な反応として湧き起こる自分の感情を、無理に押さえ付けたり、否定したり、まして罪悪感を感じて自分を責めなければいけない、ということとは違います。
それよりもむしろ、自分の感情と素直に向き合って、その出処を考えてみることの方がずっといい。
お互いを知り、愛情を持ち。
そうやって上っ面でない共感や理解を分かち合うことこそが、本当の意味で差別や分断を取り払う助けになるのだと思います。
みんな当たり前に違っているということ
どこか子供っぽく、感情豊かなムーミン世界の人たちは、自分の考えや生き方に対して頑固なところがある一方で、それと異なる他者の生き方にも寛容です。
自分の主張を理解しない人に、ばかだなぁ、と思ったり、相手の夢中になっていることの何がいいのかわからない、と言ったりすることはあっても、過度に同調を求めることはありません。
彼らは、自分たちがめいめいが違った存在なんだということを、当たり前に理解しているんだと思います。
そもそも、ムーミン童話に出てくるキャラクターたちの種族は、実に様々です。
先に出てきたムーミンやスノークの他、ムムリク(ムーミンの親友スナフキン)、
ミムラ(リトル・ミイやミムラ姉さん)、へムル、フィリヨンカetc…
(ムーミンたちが「ムーミン」「ヘムレンさん」などと呼び合うのは、絵本のキャラクターたちが「くまさん」「ひつじくん」などと呼び合うのに近いものがあります)
各種族は、見た目だけでなく、性格の傾向や生活習慣・伝統など、内面的にも様々な違いを持っています。
そんな違いの、理解できる部分もできない部分も含めて、それが相手なのだと納得して、各々思い思いに過ごして。
時にはみんなでごちそうを囲んで、同じ喜びやたのしみを分かち合う。
そこは、「他と違っている」「理解できない」ことが、ただそれだけで非難される世界ではありません。
そして他者との違いが、どちらが優れている、劣っているという評価に、安易に晒される世界でもありません。
最近は日本でも、多様性に開かれた社会の必要性が言われるようになりました。
けれど時折そこに、「だがすぐれているものに限る」「いいものに限る」という括弧書きが透けて見えるように感じることがあります。
ムーミン谷を訪れる人は、一見して気持ちの良い人ばかりではありません。
ジャコウネズミは気難し屋で、人を脅かすようなことを平気で言うし、フィリヨンカは度を越した心配性だし、リトルミイは意地の悪いことばかり言うし、スナフキンも、口が悪くて実のところ中々にクレイジーです。
それでも彼らはムーミン一家に受け入れられ、親しい人たちと思いやりを分かち合っている。
わかりやすく世の中の役に立つ何かなどなくても、各々が持っている自分の世界はどれも大切なもので、そこに優劣はないのだと。
そう、彼らは知っているのだと思います。
原作者トーベ・ヤンソンは生前、ムーミン童話の執筆について聞かれた際に、こんなふうに答えていたそうです。
「子どもたちのためではなく、第一に自分のために書いています。でも、私の書く物語が他の誰かを対象にしているとすれば、それは“スクルット”たちです。“スクルット”とは、なんらかの環境になじめずに苦しんでいるような人たち、社会のすみっこで見捨てられている人たちのことです」
ーー『ムーミン童話の百科事典』より
トーベは子供の頃から、いつも自分はひとりぼっちだという思いを抱えていました。
そして大人になってからも、半分子供の心を残した自分を、大人の世界に溶け込めないでいる存在と感じていました。
ムーミン童話の世界は、そんな彼女にとって、自由に心を解き放てる居場所だったのかもしれません。
身振り手振りを交えて激しい感情の起伏を露わにする、いつか映像で見た彼女の様子は、私が心に描いていた作中のキャラクターそのままでした。
物ごころついた頃から「普通」が何かわからずにいた私にとって、ムーミン童話は「アウトローのための物語」でした。
人と違うことに、苦しまなくてもいい。
人は、自分で自分の世界を認めてやれれば生きていけるし、ひとりぼっちは時に大きな喜びにもなる。
その上さらに、自分と違う他者の世界も認めてやれたなら、きっとその時には、また別の喜びも手に入れられる。
そう教えてくれたこのトーベの世界は、あの頃の私にとって、確かに大きな救いでした。
ムーミン童話の百科事典
児童文学者高橋静男氏を主宰とする『ムーミンゼミ』の研究がまとめられた力作。 元々半年間限定だった講座が自主的に継続され、学生、会社員、主婦、大学教授といった様々な立場の人たちが、その後10年にもわたって研究を続いたという熱意には感服します。
各項からあふれる作品への愛に、胸が熱くなる事典。事典なのに。
自由は当たり前ではないということ
「わたしに気づいてほしい」と孤独に苦悩し続けたトーベ・ヤンソンは、しかし同時に孤独を愛し、そして何よりも、自由を求めた人でもありました。
「自由」は、ムーミン童話に通底する、重要なテーマです。
中でもムーミンパパは、物語の象徴的な人物のひとりだと感じます。
自尊心が高く、海と自由を愛する冒険家。
頼られる立派な父親になることに憧れを持つ彼は、元々は捨て子でした。
ムーミンパパが育ったムーンミン捨て子ホームは、規則ずくめで自由がなく、疑問や話に誰も耳をかしてくれない環境。
孤独で辛い日々に耐えかねたパパは、ある春の日、ついに自由を求めて脱走。冒険に出かけ、そこで友人や、やがてはムーミンママとなる女性に出会います。
そうして大人になったパパは、少なからず子供っぽさを残した人物に育ちました。
幼い頃に人から無視されてばかりいたパパは、大人になっても寂しがり屋で、人から注目され、尊敬されないと不安になってしまいます。
自尊心が高い分、失敗にはひどく傷つきやすいですし、都合が悪くなると、わがままをいったりすねたりすることもあります。
その上勝手な思い込みで暴走して、失敗することもしばしば。
ちょっと(どころじゃない?)困った人物ですが、それでも憎めない、チャーミングな人。
見栄っ張りなのに、根っこは素直で、ユーモアや茶目っ気もある。
普段は空回りしがちな考えが、頭の中でカチッと上手く嵌ると、驚くような冴えを見せることもありますし、何より、他人の気持ちを大切にする、心優しいムーミンです。
エピソードを拾い上げれば、格好悪いところが目につきがちなパパですが、その独立心の強さ、内に秘めた高潔さもまた彼の本質なのだと、そう感じさせる場面もしばしばあります。
「生きるだけではよくない。人のまわりには重要な意義深いことがたくさんある。それを体験し、それについて考え、自分のものにしなければいけない。そして、その中心に自分がいて、自分がいちばん重要だ」
ーー『ムーミンパパの思い出』より
はじめてこの台詞を読んだとき。
捨て子として人生を始めて、そこで与えられた、あるいは与えられなかった何かを恨むのでなく、こんなふうに人生の美しさを信じられる。
その強さを、素直にすごいと思いました。
勿論、冒険には危険がつきもので、ムーミン一家がムーミン谷を離れ海の孤島に移住する『ムーミンパパ海へいく』では、一家は生命と、そしてそれぞれのアイデンティティの危機に見舞われます。
それでもそんな中で見出した新しい生き方や繋がりは、確かに「意義深い」と感じるお話でした。
(そしてどんなときも揺るがずマイペースなリトルミイ、恐るべし……)
「自由」といえば、人と人との繋がりや家族の形についても、ムーミン谷は独特の自由さがあるように感じます。
中でも水際立っているのがミムラ夫人。
ミムラ姉さん、リトルミイ、それからスナフキンの母親でもある彼女は、なんと35人以上の子供のお母さんです。
いつもたくさんの子供を抱えて忙しくしているけれど、大らかで豪快。
ミイの度を越した悪戯も大笑いして喜んでしまうくらい、子供の個性を愛し、喜ぶミムラです。
ちなみに、ミイたち姉妹とスナフキンは異父兄弟で、ああ見えてスナフキンよりリトルミイの方がお姉さんだという事実は、誰に話しても驚かれるムーミン雑学です。笑
新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)
シリーズ第三作目。
生まれてはじめて風邪を引いたパパが、「もう死ぬかも」と思いつめて、「思い出の記」を書き始めるところから始まるお話。
ミムラ夫人も、スナフキンの父親も、ムーミンパパの冒険時代の仲間として登場します。
パパは毎日、「思い出の記」を書いてはみなに朗読して聞かせ。そしてついに完成したその日、ムーミンパパや、誰よりもスナフキンにとって、大きく喜ばしい奇跡が起こります。
こういう家族観に対する奔放さは、トーベ自身がセクシャル・マイノリティであったことと、無関係ではありません。
ムーミンシリーズに出てくるトフスランとビフスランという二人組。
小さくて、独特な言葉を話す彼らのモデルは、トーベと、その長年のパートナーであったヴィヴィカという女性でした。
トーベはその生涯の中で、ヴィヴィカ以外の女性とも、そして男性とも、いくつもの激しい恋を経験したそうです。
彼女が生きた当時のフィンランドでは、同性愛は違法であり、病気でした。
それでもトーベは社会の規範を離れ、自身のアイデンティティを、自由に定義しようと挑み続けました。
自由を求めることは時に戦いなのだということを、体現しているキャラクターがいます。
スナフキンです。
少なからぬ人に、どこかクールで物静かなイメージを持たれている印象のあるスナフキンですが、原作では中々に毒舌かつ大胆です。
物事にあまり執着しないように見える彼ですが、長年敵と思い定めた相手がいました。
公園番です。
ムーミン谷にはいくつかの公園がありますが、彼が忌み嫌っていた公園は、何もかも規則尽くめの、息詰まる空間でした。
道は定規で測ったようにまっすぐに整備され、木々は不自然に丸や死角に刈り揃えられています。
芝生の周りには高い塀が施され、敷地のあちこちには、大きな字で「〜するべからず」と書かれた禁止の立て札が立てられています。
そして、そこで遊ぶ子供たちは皆、厳しい公園番に始終監視されているのです。
『ムーミン谷の夏まつり』のなかでスナフキンは、そんな公園番を懲らしめるためあることをします。
そしてなんと、公園中の立て札を引き抜いて、全て燃やしてしまうのです。
(このとき、たまたま道々一緒になったリトルミイがそばで一部始終を見ているのですが、悪事を働いている時の意気投合ぶりを見ると、なるほど兄弟なんだなぁ(本人たちは知らないけど)と思ったりします)
言い分はあれどちょっと過激だなぁ、というこの行動については、ムーミンたちが巻き込まれて大変な思いをしつつ、最後には一応の和解に至るわけですが……まぁ、ここでは長くなるのでわきに置きます。
新装版 ムーミン谷の夏まつり (講談社文庫)
シリーズ4作目。
平和でおだやかな初夏のムーミン谷が、火山の噴火とそれに続く大洪水で沈んでしまう、という災難からの幕開け。
そこに見たこともない大きな屋敷(実はこれが劇場なのですが)が流れてきたことで、ムーミンたちはたくさんの未知の体験をします。
公園でひと暴れしたスナフキンやミイも合流して、色々なところに散っていた人々が一堂に会する大団円は中々の見もの。
ムーミン童話の幻の処女作とされる、『小さなトロールと大きな洪水』が出版されたのは、1945年。
第二次大戦直後の混乱期に出版され、その後長らく絶版となっていました。
続く第一作『ムーミン谷の彗星』も、筆が取られたのは戦時中だったそうで、こうした初期作品では、洪水や彗星、嵐といった、外的な脅威が度々登場します。
戦争のような脅威の中では、自由はいまほど、当たり前でも揺るぎないものでもなかったでしょう。
いえ、むしろ、ただ気づきにくくなっているだけで、今でも自由は、当たり前ではないのでしょうね。
きっといつでも、理不尽に奪われてしまうことはあり得るし。
手にし続けていたいなら、守るため、取り戻すために、戦わなければいけないこともあるのでしょう。
それは、スナフキンのようにわかりやすく、過激な戦いとは限りません。
現代を生きるわたしたちが費やすべきはむしろ、命よりも、言葉であり、思いであり。
拳を振り上げるよりも大切なのは、対話を諦めず、連帯の輪を広げていくことなのでしょう。
だからこそ、そのためにこそ、覚悟だけは手放してはいけない。そんなふうに思います。
小さなトロールと大きな洪水 (講談社文庫).
長く絶版になっていた、幻の第……0作?
1991年に再販され、日本でも1992年に翻訳されています。
挿絵も人物像も、この頃はまだ固まっていなかったんだなぁ、ということがわかる、ごく短い作品。けれど、ムーミンたちのちっぽけさが、洪水(が暗示するもの)の脅威の大きさを際立たせるようで、今読むと色々考えさせられます。
まとめ
そういえば、最後までいうのを忘れていましたが、大事なことがあります。
ムーミンシリーズは決して、ムーミンが主役ではないということです(いや、これは完全にわたしの私見なのですが)。
そのことはシリーズ最終作『ムーミン谷の十一月』という物語に、よく現れていると思います。
この作品に、ムーミンは登場しません。どころか、ムーミン一家は誰一人として登場しません。
ここでは、ムーミン一家に会いにムーミン谷を訪れた人々が、互いに助け合いながらそれぞれの困難と向き合い、内的危機を乗り越え、自分自身を見出していく姿が描かれています。
このお話に限らず、主役、脇役という書き分けが感じられないのも、ムーミン童話のもう一つの特徴と言えるかもしれません。
誰が物語の中心ということもないので、絶対的な正義も悪もありません。
他の物語でずっと嫌われものだった魔物も、『ムーミンパパ海へいく』ではムーミンと心通わせ、友達になります。
皆それぞれに思いがあり、事情があり、だからこそ自分を大切に生きること、他者に寛容でいることは、ふたつながらに大事なのだと。
ムーミン童話の世界にいると、改めてそう感じます。
まるで、人生そのものですね。
新装版 ムーミン谷の十一月 (講談社文庫)
シリーズ第8作目にして最終話。
人生に苦悩しながら懸命に生きる、すべての“スクルット”のための物語。