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アイスランド最終日は荒天に見舞われ、ツアーで一緒になった仲間の中には、飛行機がキャンセルになった人もチラホラ。
幸い私の予約していた便は4時間遅れで飛んでくれるようなので、夜のケプラヴィーク空港で搭乗時間を待ちながら、ぽつりぽつりと書いています。
(そして帰国後にupしています笑)
そんな感じでもう帰路に着こうというのに、今日はもう一つだけ、予習(?)で読んだ本を紹介させて下さい。
地底旅行 (岩波文庫)
言わずと知れたSFの父、ジュール・ヴェルヌの冒険小説です。
私は見ていないのですが、『センター・オブ・ジ・アース』のタイトルで、ディズニーが映画化したこともあるそうです。
ヴェルヌと言えば、一般的には『十五少年漂流記』が有名なのかも知れませんが、個人的には一番最初に読んだこの小説は、一番印象的で、一番好きな作品です。
探検旅行を計画する稀代の鉱物学者にして地質学者、リーデン・ブロック教授のキャラクターが強烈で、実際に探検に出かけるまでの蘊蓄や謎解きが長くて長くて。笑
でもその猛烈なまでの科学への情熱が、この地底旅行にただの冒険に止まらない深みを与えてくれていて、子供心に「(難しくてちゃんと理解しきれてはいないけど)面白い!」と夢中になったのを覚えています。
そして実は、この小説の冒険のはじまり。地底へと向かう入り口になっているのが、アイスランドの死火山の火口なんです。(ガイドブックで読むまで忘れてたけど笑)
今回、この本を再購入して読み返すと共に、化石オタクの友人から勧められた漫画版にも手を出しました。
実際には、読み始めたのは空港に向かう朝の電車の中だったのですが(汗)、全4巻と非常にコンパクトにまとまっていたので、アイスランドに着くまでに無事読了することができました!
漫画版は、短いながらも要点や作品の雰囲気をよく捉まえていて、なるほど、あのオタクが押すのもわかる……と納得。
そして、舞台となったスナイフェルスネスを訪れた時に「おお、ここがあの……」と直ぐに頭の中のイメージと目の前の光景が結びついたのは、多分に絵の持つ力の偉大さだなぁ、と感嘆しました。
地底旅行 1 (ビームコミックス)
この冒険旅行は、当然架空の物語です。
しかし、その当時の科学を下地にした克明な旅の描写には、「地球ってデカイな……」という畏怖を改めて呼び起こさせるものがありました。
物語の舞台は、ジュール・ヴェルヌの生きた19世紀の時代なので、教授たちの装備は登山旅行者のような、人力に頼んだものです。
でも、彼らが遭遇する困難を見ると、例え現代の最先端の科学を結集したところで、地球の脅威の前には誤差の範囲なのだろう……という思いを禁じ得ません。
そしてそうした脅威……嵐や、噴火や、その他諸々の自然現象は、惑星としての地球にとっては、ごく表層の部分で遥か昔から延々と繰り返されてきた営みでしかないのです。
地球の半系は6,371km。
私たちが直接にふれている地球の表層、大陸地殻は、凡そ30〜40km程度。
人間たちはこの地殻を掘り進めて、色々な資源を採掘していますが、現在最も掘り進められているとされる南アフリカのムポネン金鉱山で、その深さは4km程度。
こうして数字を並べるだけでも、人間の活動が、地球にとってはいかにちっぽけなものかがわかります。
(写真は「ギャウ」と呼ばれる大陸の裂け目。道を挟んで左が北米プレート、右がユーラシアプレートです。)
そんなことを考えながら、これまで何となく違和感を感じていた表現について、自分の中ですとんと腑に落ちたところがありました。
これは、まったくもって私の個人的な感覚なのですが。
実は「地球を守る」という言葉にふれる度、「何か偉そうだなぁ」とふんわり居心地が悪くなる自分がいました。
「いやいや、地球は守られるようなタマじゃないでしょ。力関係で行ったら圧倒的に地球の方が上でしょ」
などと脳内で猛烈にツッコミつつ、
「いやでもこれって確実に、天文学的・地質学的・気象学的な意味での地球じゃなくて、動物とか草木とか、そういうにフォーカスして『地球』って言ってるんだよね、うん」
となだめる1人漫才を繰り広げつつ。
でもやっぱり、何かがスッキリしないなぁ。
そんな思いを、無意識下に抱えていた訳です。
でも、今回この話を読みながら、理解しました。
私は基本的に、「地球」という言葉を使うとき、惑星としての地球を頭に思い描きます。
そこには、上に乗っかっている動植物を含むことも、含まないこともある。
ただ言えるのは、地球上の動植物等を含めて「地球」と呼ぶなら、そこには人間も含まれてるのが自然だよね。という意識があったんです。
だって人間は、地球にとっては、その長い歴史の中でつい最近出てきた、ひとつの種に過ぎません。
きっといつかは居なくなって、その後にも、地球は新しい歴史を重ねていくのでしょう。
だから俯瞰的に見たら、
(大地や気候としての)地球と、動植物など生物 vs 人間
という対比より
(同上)地球 vs 人間を含む動植物
のという構図の方が、ずっと自然だと思うんです。
「自然を守る」
「地球を守る」
という言葉の目指すところや、それを口にする人たちの志の高さには、深い共感と強い尊敬を感じつつ。
その一方で、こうした表現の奥に時に透けて見える、人間の能力への過信や傲慢が、私には苦痛だった。
同じ言葉でも、素直に心に響くこともあれば、時としてどうあっても生理的に受け入れられないと感じる程の強い嫌悪を掻き立てられることもあるのは、そういった理由だったのか、と。
至極個人的な感覚の問題だけれど、このことを理解して、とても心が楽になりました。
そうして、「地球 vs 人間を含む動植物」という軸で環境問題を捉え直すと、結局これは誰のためでもなく、何よりも人間自身のために、取り組む必要のあることなのだと感じます。
アイスランドの氷河や火山地形を見ていると、地球は、今以上の劇的な気候変動や地殻変動を何度も繰り返してきた星なのだと、改めて感じます。
仮に地球温暖化が進んで、氷河がすべて溶けて、たくさんの陸地が海に沈んで、膨大な生物が絶滅したとしても。
地球はその新しい気象の中で、新しい生命や自然現象を生み出していくのでしょう。
生物の絶滅なんてこれまで何度もあったことだし、大陸の形なんてびっくりするくらい変わってるし、そんな変化も含めて、地球にとっては長い歴史の中の営みでしかないのだと思います。
だから、地球温暖化で困るのは、地球よりもまず、人間自身です。
たとえ人間が愚かしく自滅したとして、たぶん地球にはさしたる痛手でもない。
ただ、この場合気の毒なのは、巻き込まれる他の生き物たちです。
人間がいなければもっと長く繁栄できたかもしれないのに、ホント、いい迷惑ですよね。
ことが人間だけの問題ならば、自業自得。勝手に自滅しなさいな。
という話ですが、他のたくさんの生き物も巻き込んで無理心中、みたいになってしまうならば……やっぱりこれは、頑張らなきゃいけないんじゃないかな。
「地球を守る」なんて言葉、少なくとも自分で使うには、私には壮大過ぎます。
どちらかというと、自分たちがこれまでしてきたことの尻拭いを、今更のように焦ってやってるだけ、という方が、私の実感には近い。
でも別に、それで良いと思うんです。
生きていれば、みっともないくらいに必死にならなきゃいけないこともあります。
それが生きるためならば、なおさら。
綺麗な言葉で包んで幻想に浸るより、透かして格好つけるより。やるべきときに必死に足掻ける方が、余程格好いい。
そんなことを思うのでした。