レス・ウェイスト・ゲーム

ゴミと無駄を減らして身軽に自由に。ものぐさライフログ。

「あるんだから」


旅先で買った本を読みはじめた。
適当なところで開いて読んで、その印象で買ったので、自分の中では今日からが読みはじめ。

1ページ目を開いて早々、うわぁとやられた。
はっとしたのは、「はじめに」の一節。

 この本にもよく出てくる86歳のハマちゃんがよく言います。「あるんだから」。そう、あるんだから。ついつい、あれがあったらなあ、ここがこういう場所だったらなあと、ない物ねだりをしてしまいますが、目の前にいっぱいある、あふれるようにあるものごとにこそ気づいて、一緒に楽しく心安く暮らしていけるだけで、だいたいいつも幸せでいられるのだなと知りました。

ーー高木正勝『こといづ』


ブログやTwitterで自分の考えをアウトプットするようになってから。
いつもどこか、居心地の悪い引っかかりを感じている。

私の言葉は、随分と独りよがりな棘を纏っていないだろうか?

世の中の何かに「問題がある」「良くする必要がある」と感じたとき。
それを吐露する言葉に、自分で「何様だ?」と思うことがある。

批判の言葉が、誰かを責めるような色を帯びているからだろうか。
いや、多分それだけではなくて、どこかで自分を棚上げしているような、自分にはまるで何も問題がないと言いたそうな空気を含んでしまっているからだと思う。

本来、「批判」というものは物事の是非を評価すること、欠点を正すべく論ずること、という以上の意味はない。
けれどこの言葉が使われるとき、どうしてもそこに「批難」の雰囲気も含んでしまうことが少なくないように感じる。

それはきっと私の中に、現状に感じている不満や不安をぶつけようと、「犯人探し」をするような気持ちがあるからだ。
だからこそ、その心から枝葉を伸ばした言葉に棘が生える。

でも、棘で誰かを突き刺して、現実は変わる?

可能性は常にゼロではないけれど、きっと限りなくゼロに近いだろう。
誰だって、傷つけられれば自分を守りたくなる。
守るために武装して、攻撃的になって。
それを受けて批判する方もますます、「批判」から「批難」に軸足がズレていって。
そうして対立の構図や、相手を言い負かすこと自体が目的化してしまったら、事態はむしろ膠着化してしまう。
これって全然、合理的じゃない。

理想をいうなら、
問題を誰かのせいと考えるのではなく、自分を含むみんなの課題として、常に心に持っていられたらいい。
現状の欠点や間違いを指摘する目的が、現状に対する批難ではなく、改善の方向性を模索することだったらいい。

こういうことを自然とできる人もいるけれど、私は全然だめだ。
だって前者と後者では、前者の方が圧倒的に簡単なんだもの。
常に明るい方を向いていたいけれど、油断すると私の気持ちはすぐに安易な方に流れて、誰かを責めて何かをした気になってしまう。

こういう自分を、すぐに手放すことはできないだろう。
でも、せめてそんな自分がいることを、ちゃんと自覚していたい。


そして、「批判的」ならぬ「批難的」な自分をめいっぱい知って、もうひとつ感じたこと。
低きに流れて現状を批難してばかりいると、「足るを知る」ことと「現状に甘んじる」ことの境目が曖昧になっていく気がする。

  • 自分が手にしているものの価値をきちんと感じとること。
  • 事実を事実のまま受け止めること。

これは見失いがちで、でも見失うたびに思い出したいと思う、大切なことだ。
でもなぜだか、ここ最近は自分の中にこの感覚がうまく馴染まなくて、居心地が悪かった。
「足るを知る」ということが、ともすると

  • 現状の是非を問わず看過すること

にスライドしていってしまうような気持ち悪さがあった。
そして、長いこと理由のわからなかったその不快感が、冒頭の文章を読んだとき、ふいに腑に落ちた。

結局、他人事なのだ。

誰かを責めているときも。
正すべき現状をそのままに見過ごすときも。
問題は自分の手元にはない。いや、本当は自分自身も関係しているはずなのに、心が手放してしまっている。

他人事じゃないんだよ。

きっとこの言葉を、私はもっと、自分に言い聞かせなければいけない。


「あるんだから」という言葉。
存在するものは存在するし、事実は事実であるというこの言葉は、至極ニュートラルなもので、どんな心持ちの人にとってもきっと、等しく正しい。
けれどそれを口にした人が、自分の内にどんな前提を抱えているかで、その意味するところはまったく違ってしまう。

引用した「あるんだから」は、ハマちゃんが口にして、高木正勝さんが受け取ったからこそ、ありふれた日常を照らすあたたかい言葉になった。

私もできるならば、この言葉にそういう響きをのせられる人でありたい。

「あるもの」の価値を正しく受け止めながら。
誰かを責めるためでなく、誰かとともに考えていくための言葉を紡ぐ人になりたい。


高木正勝『こといづ』
※ 高木正勝さんは『おおかみ子どもの雨と雪』、『未来のミライ』のサントラや、サントリーのCM曲、各種テーマ曲を手がける作曲家&映像クリエイターさん。
初エッセイなのに、文章に音楽家ならではの心地よい流れとリズムがあって、結構クスッとさせられるところもあって……吉本ばななが絶賛するのもわかるわ。