Reach Out to Ecology

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番外:アイスランド以外でも考えた 〜「思いやり」についてのあれやこれや

さて。
今回のアイスランド旅行は、私にとってはじめてのアイスランド上陸でした。
と同時に、とっても久しぶりの海外旅行でもありました。

トランジットを含め、7泊9日の長期旅行。
行きはイギリス、帰りはフィンランドを経由して。折角なので、初めて訪れるロンドンとヘルシンキも軽くお散歩してみたり。
摘み食い程度ですが、色んな国の空気を吸えたのは、とてもいい気分転換になりました。

そうやって3つの国をぶらぶらする間、「あれ? 私ってこんなに軽やかな気持ちでいられるの?」と驚くくらい、すごーく身軽な気分で日々を過ごしている自分がいました。
もちろん、仕事やその他もろもろの、日々のしがらみからの開放感、とか。
はじめて訪れた地に浮き立つ気持ち、とか。
そういう、休日のお出かけに馴染みの嬉しさもあったと思います。

でも、それだけじゃない。
感じていたのは、国内旅行のときとは本質的に違った、思考のスリムさでした。
そこには普段、私が知らず知らずのうちに感じていた劣等感や苦手意識、違和感を、自分のせいばかりにしなくてもいいんだ、という。
無意識のうちに自分に課していた重荷を手放すような、そんな喜びがありました。

大袈裟ですね。苦笑
でも、それが私の正直な実感でした。
特別なことなど何もない、平凡な街歩きの中で、何がそんな風に私を自由にしてくれたのか。
そこを紐解くためにはやはり、日本で私が見ている景色と比較することを、避けては通れないのだろうな、と思います。



ブリティッシュ・エアウェイズに乗って日本を飛び立った後。
機内で、イギリス人と思しきアテンダントさんの接客を受けながら、「あれ、意外と快適だぞ?」と思った自分がいました。

よく、「海外の接客は日本のサービスと比べて、無愛想で不親切だ」なんて話を聞きます。
その言葉を真に受けているつもりはなかったけれど、何とはなしに、つっけんどんな接客を想定して身構えていた部分はあったんだと思います。
CAさんの纏うさっぱりとした空気に、最初は、少なからず肩透かしを食らったような気分を味わいました。

確かに、特段笑顔を作るでもなく、用件のみをテキパキとこなしていく姿には、日本的な「おもてなし」のあたたかさはありません。
でも、冷たい印象かというと、そんなことはまったくなくて。
逆に、「ドリンク用のカップをリユースできないか?」と、普段なら躊躇いながらおっかなびっくり尋ねたであろうことも、さらりと聞けちゃったくらい。
「もちろん」と彼女が笑顔で注いでくれたクランベリージュースを、ご機嫌で飲みながら。
出足は好調。悪くない旅の始まりに、気持ちが軽くなるのを感じました。


ヒースロー空港に降り立って、せっかくだから、とロンドン市内に足を伸ばした際にも、色んな場面で「あれ、みんな意外と親切だぞ?」と感じました。

どの乗車券を買うべきか悩んだり。
バスの乗り場を探してキョロキョロしたり。
はじめて使うタイプのセルフレジを前にノロノロしていたり。

私が「えー、と……?」と思うか思わないかのうちに、不慣れな様子を見かねて、当たり前のように声をかけてくれる通りすがりの誰かがいました。
「どうしたの?」と尋ねられてしどろもどろ答える私を見て、さっさと事態を把握して、さっさと解決して、問題なさそうだとなったらさっさと去っていく。
その間、10秒そこそこ。
気の利いた一言と笑顔を残していく人もいれば、愛想なく去っていく人もいて、コミュニケーションの温度は人それぞれだったけれど。
困っている人がいたとき、構えなく声をかけられる人が多いのだなぁ、と思いました。



相手に構えがないと、対する方も力が抜けます。
お店に入るのも、イギリスやアイスランドでは、随分と気楽でした。
考えてみたら、当たり前のことのような気がします。
欲しい商品を注文して、お金を払って。
求める商品や要望は、満たされることもそうでないこともあるけれど、それは私や店員さんの個人的な感情とは全く関係のないこと。
そしてお金と商品の交換は、それ自体等価だから、お金を払う側と受け取る側には、上下関係はありません。
だから、お金を払って、商品やサービスを受け取るやり取り自体は、それ以上でも、それ以下のものでもありません。
目が合って軽く微笑み合ったり、「これ美味しいよ」「あら、楽しみ」と軽口を交わすこともあったけれど、それは、彼らの仕事の外の出来事。
義務も気遣いも不要の自然なコミュニケーションは、心を随分とやわらかくしてくれました。

そうやってお店に入る度に、何度となく思いました。
買う側であれ売る側であれ。
日本では、ただちょっとしたものをやり取りするだけで、精神的なエネルギーをものすごくたくさん消費していたんだなぁ、と。

コンビニでも、高級旅館でも、日本は接客において多くを求められる国だと思います。
「おもてなし」の名の下に、お客さんの思いや行動に配慮して、先読みすることが、当たり前のスキルのように扱われている。
そしてお客さんのニーズに合わないと、多くの場合「ご意見」や「改善点」というかたちで、その責任は接客側に投げかけられます。
そんな非常な気遣いを感じているからこそ、買い物する側になった時もそれに応えようと、あるいは無用な気遣いをさせまいと、コーヒー1杯注文するのにも知らず知らず、すごく気を張り詰めていたんだなぁ、と。

肩の力が抜けまくった接客を受けてみてはじめて、そんなことに気づきました。



ヘルシンキ空港から中央駅へと向かう列車に乗っていたことのことです。
途中の停車駅で乗り込んできた親子連れを見た私は、何も考えず自然と席を立っていました。
親子が話していたフィンランド語は1ミリもわからなかったけれど、なんとなく、席を探している感じがしたんですね。
言葉の通じないもの同士の数秒のやりとりは、驚くほど自然になごやかにまとまって。
次に腰を下ろしたときには、私は、窓の外を熱心に覗き込む女の子の隣にいました。そしてその様子を、向かいに座ってにこにこと眺めるお母さん。
(4人がけのボックス席で、もう一つの窓際席は、別のお姉さんが座っていました)

私はそのまま、何事もなかったように読書に戻ったのだけれど。
何でこんなに自然と体が動いたんだろう? とふと考えて、気づきました。

そうか。
ここでは、相手の感情にまで責任を持たなくていいからだ。

電車の中で。あるいはバスの中で。
私が「座りますか?」と尋ねた人が、必ず席に座りたい人だとは限らない。
でもそれは、私には推し量りきれない相手の事情です。
「ありがとう」と席に着くか、「結構です」と断るか、それは相手が選んで応えればいい。
ごく自然で、当たり前のことです。

でも日本にいるときの私には、それは当たり前ではありませんでした。
席を譲ろうとして、「そんな年寄りに見えるのか!」と怒鳴られたことは、片手では足りません。
逆に、「気づくのが遅いわ」と文句を言われながら押し退けられたことも、一度や二度ではない。

電車やバスで席を譲るべきか、譲らざるべきか。
私にとってはそれはいつも難題で、座席に座ること自体に薄らと恐怖を覚えるほどでした。
自分が嫌な思いをしないためには、自分が適格に相手のニーズを見極めなければいけない。
そんなプレッシャーを、常に抱えていました。
でもそんなの、本当はおかしなことです。

これに限らず日本では、行動する側にばかりに責任が求められがちな風潮があるように感じます。
「おもてなし」や「思いやり」の名の下に、相手の意図を察して先回りすることを求められて。
でもそれぞれの人が求めるものは当たり前に少しずつ違うから、当然誤差や不一致は生じる。
その誤差は本来、相互のやり取りで埋めるものです。
それなのに、「自分の思いは、言葉にして伝えないと相手にはわからない」という当たり前を置き去りにしたまま、「察しが悪い」と怒るのは、どうにもフェアじゃない。


そんなことを考えながら、じんわりと哀しく、思いました。
どう動いても文句を言われるなら。行動するほどに傷つかなければいけないなら。行動することを躊躇うのも、仕方がないことなのかもしれない。

道で誰かが倒れているとき。
誰かが困っているとき。
日本人は見て見ぬふりをする人が多い。誰も手を差し伸べない。薄情だ。
そんな声を耳にすることがあります。

でもそれじゃあ、そんな中で勇気をもって手を差し伸べた人が、どれだけきちんと評価されるているのか。
正当に労を労われることもあるでしょう。
しかし一方で、「余計なことをした」「売名行為だ」「対応が不十分だった」などと、SNSやメディアで、心ない批判に晒されたり。
不運なことに、トラブルに巻き込まれてしまった知人もいました。

ただ善意で声をかけても、相手によっては余計なことをしたと責められる。知識や技術が及ばなくても責められる。
手を伸ばしてしまえば、相手の要望と状況を察して、パーフェクトな対応をしない限り、責めを負う可能性がある。
そんなことを想定しなければいけないなら、自分の身を守るために、咄嗟に身が竦んでしまうのも、当然のことのように思えます。


私は今回の海外旅行で、色々な国の人に随分と親切にしてもらいました。
でも、彼らが特別に心優しいとか、日本人の心が冷たいとか、そういう風には感じなかった。
日本でも、親切に声をかけてくれる人はいます。

そういった人からは多くの場合、過ぎるくらいの遠慮と、「声をかけるかめっちゃ迷ったんですけど……」という、巨大な葛藤を乗り越えてくれた空気をビシバシ感じます。
でも、ロンドンやヘルシンキやアイスランドで遭遇した人は、ただちょっと気になったから声をかけた、という、ほとんど反射的な感じでした。
実際、反応スピードは異様に早かった。

つまるところ。
誰かに親切を施すのに、世界中のどこでも、皆が同じだけの高いハードルを乗り越えなきゃいけないわけじゃない。

「人と自分は違う」とか、「自分の気持ちは自分で伝えないと相手はわからない」とか、「自分の感情や事情は本来自分で面倒をみるもの」とか。
個々人がそれぞれ自立していて、尊重されている前提があるだけで、コミュニケーションは驚くほど軽やかになります。
そして私はたぶん、そういう身軽で素直な心から自然に差し出された思いやりを、理想のように思っているんだな、と。
そんなことを思って、日本で感じていた現実とのギャップに、少し泣きたいような気分になりました。




最後にもうひとつだけ、電車での話を。

ヘルシンキ空港へと戻る電車の中で、愛犬と一緒に乗ってくるご婦人に遭遇しました。
考えてみると海外では、色々な場面で動物連れの人を見かけます。
しかしはて、この環境を、犬アレルギーや猫アレルギーのある人は、一体どうやり過ごしているんだろう?
そう思って。

ああ、これも結局同じことだ、と気づきました。
自分が困るなら、それを相手に「伝えればいい」んです。

こういった場合、日本でありがちな議論は、「アレルギーの人もいるんだから禁止すべき」というものだと思います。
でも本当は、そういった対応は全く万全じゃない。

アレルギーや過敏症というのは、原理的にはほとんど、世の中のどんなものに対しても起こり得る症状です。
動物がダメな人。
ゴムなどの素材がダメな人。
アルコールがダメな人。
ホコリがダメな人。
日光がダメな人。
柔軟剤などの強い香りがダメな人がいることも、最近「香害」という言葉とともに認知が広がっています。

そしてそういった問題とはまた別に、世の中には、ごくごく普段通りの生活を送っていくために、介助犬や盲導犬のサポートを必要としている人もいます。

人が集まれば、そこには本当に多種多様な、あらゆる可能性が内包されます。
そうした可能性をひとつずつ考えてみると、特定の何かだけを禁止することが、必ずしも合理的で配慮ある決まりとはいえないことがわかります。

私たちはそれぞれに、見た目だけでは推し量れない、様々な事情を抱えて生きている。
各々の事情と事情は、時にぶつかり合うこともあるでしょう。
そうしたとき、一定の規則があるというのは、確かにラクチンかもしれません。考えなくていいからね。

けれど、もっともな理由のある事情が、ただ少数派だから、規則の外にあるから、というだけの理由で受け入れられないなら、はたしてそこは、住み良い社会といえるでしょうか。
自分の困窮を伝えても、「それが決まりですからダメです」「規則では禁止されていないので」と聞く耳も持ってもらいないのは、とても哀しく孤独なことだと思います。


私は昔から、「優先席」というものが納得できずにいました。
限られた椅子を、より必要としている人に譲ってあげよう。
そういった助け合い、譲り合いの精神は、多くの人にとって過ごしやすい場を作っていくために、基本になる大切なものだと思います。

けれど、休息を必要としているのは、必ずしも見た目にわかりやすい人、優先席のロゴで示された人ばかりではありません。
マタニティマークやヘルプマークの普及は大切な取り組みだけれど、持病がなくても、急に体調を崩す人もいる。
実際、40℃の熱を出して早退したときも、足を捻挫していたときも、座席に座っていた私は、見た目にはただの元気な女子高生だったでしょう。(だからおばあちゃんに杖で打たれたんだと思います)

だから本当は、優先席や特別なマークなどなくてもいいくらい、困っている人が声を上げやすい社会になったらいいのに、と思う。
そしてそれは、困っている人に手を差し伸べやすい、自分の心が動いたとき、素直に行動に移しやすい社会になることと、裏表なんだと思います。



「おもてなし」や「思いやり」は、それ自体は素敵な文化です。
けれど、それは当たり前に与えられるものじゃないし、まして、受け手がカツアゲするようなものでもない。
相手を思いやる心映えは美しいです。
けれど「思いやってもらうこと」が当たり前の社会は、まったく美しくない。

生きていると、選択にはいつでも様々な不確定要素が付き纏います。
でも、それも織り込んだ上で、自分の選択の結果は、基本的に自分の責任です。
望ましい結果が伴わなかったことがすべて、すぐさま誰かを責めていい理由になるわけじゃない。

その前提があってはじめて、私たちは不当に人を責めず、人の行為に胡座をかかない誠実さを手にできるのではないでしょうか。

行動する人ばかりが責任を問われるのも。
世の中の「きまり」からはみ出した少数派ばかりが苦労を負わされるのも。
私には、住み良く美しい社会のかたちとは思えません。

世界は誰を中心にも回っていない。
だから、世の中のかたちが自分の思う通りでないこともたくさんあるし、その一々に怒っていいわけではありません。
でも、世の中の決まりの中であなたが困り果てて、声を上げたとき。
その声が無視されたり、心無い言葉でしか迎え入れられないなら、それはきっと、怒っていい。
そうして、私もあなたも、周りの人の声に素直に向き合って、多くの人にとって声をかけたり、手を差し伸べ合うことが当たり前の社会になったなら。

そこは少なくとも私にとって、「してもらうこと」が当たり前の社会よりも、何十倍も風通しのいい居場所に感じられるのだろう、と。
そんなことを、思うのでした。