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アイスランドに旅してからはや3ヶ月。
全く旅行記になっていないこの物思いの記は、今回で一旦最終回かな、と考えています。(まだまだ考えごとは尽きませんが、キリがないので)
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この記事を書いている現在、日本は5月5日。こどもの日です。
そこで、というわけでもありませんが本日は、少子化問題についてのあれこれを。
小国 アイスランド
アイスランドは、ごく小さな国です。
国土は北海道の1.3倍ほどの広さ。
以前にも書いた通り、溶岩土に覆われた不毛の大地は農業的な生産性に乏しく、ほとんどの場所では、手付かずの荒野が広がっています。
当然人口は少なく、およそ35万人。
日本の総人口の350分の1、東京都の40分の1程度です。
その内9割は首都レイキャヴィークに住んでいるとされていますが、それでも人口密度の差は歴然。
観光名所が集まるレイキャヴィーク中心部も、高層の建物はわずかに数えるばかりの可愛らしい街並みで、街も人も、地方都市のようなのんびりとした空気に包まれていました。
働く人の多くは夜にはきちんと仕事を終えて、クラブに踊りに行ったり、家でのんびりと本を読んだり、プライベートの時間を楽しんでいるのだそう。
それで、国全体の生産性が低いかというと、全くそんなことはなく。
2019年の一人当たり名目GDPは、74,515USドルと、なんと世界第6位(ちなみに日本は39,303USドルで26位)。
うーむ……
もちろん、国によってもともと持っている資源や、地理的条件、産業の内訳や労働人口の割合等、色んなことが違うのはわかっています。
わかった上で、やっぱり思わずにいられない。
日本ではアイスランドよりもずっとずっとたくさんの人が、少なからず追い詰められるくらいに必死で働いていて。
それでなぜ、こんなにも生産性が低いんだろう?
疑問のような言葉を頭に回らせながら、その実、思い当たる節は山程、それこそ山程ありました。
効率の悪い会議に、必要度の低い集会。
現在の運用では既に用を成していないはずなのに、慣習的に作成を求められる無駄な書類。
手間がかかる割に実効性に乏しい、様々な無駄が、日本のオフィスにはあふれています。
もちろん、改善を試みる人もいるでしょう。でもその度に、言われる言葉。
「そういう決まりだから」
これはあくまで、個人的な実感に過ぎませんが。
なくならない業務の中には、「必要性を説明しろと言われると困るけど、今までずっとそうしてきたから」という以上の存在理由を持たないものが、少なからずある気がします。
不謹慎ではありますが、今回の COVID-19 流行は、そういう無駄に気付くのには良いきっかけだったのかもしれませんね。
そして今回炙り出された無駄を、これから先、働き手のことを考えて排除する方向に動くのか。
それとも慣習を慮って、元通りの業態を保つことを目指すのか。
恐らく、こうした対応の如何によって、時代に飲み込まれていく企業、時代を乗りこなしていく企業と、明暗が分かれていくのだろうな、と。
素人は素人なりに、そんなことを考えるわけです……が。
何となく、「労働者は無理しても頑張るのが当たり前」という空気が拭えていない今の社会の雰囲気から、後者の方向に流れるところも少なくなかったりして……と案じていたりします。
そしてこのへんの、「働く世代の大切にされてなさ」は、実のところ、少子化問題とも切り離せない位置にあるのでは、ということを、個人的にはずっと感じているのでした。
少子化は悪か?
「少子化が問題だ」と、私たちの世代は、それこそ小学校くらいからずっと聞かされてきました。
しかしそれを抜きにしても、少子化問題は私にとって、いつも心のどこかで気にかかっているテーマでした。
そもそも、「少子化対策」という言葉。
少子化問題とは、出生数と子供の減少による、現在の社会システムの破綻を言うのだと認識しています。
ならば、その問題の解決策は、「出生数の増加」だけではなく、「この子供が減少しても成立し得る、社会システムの構築」という方向性も検討し得るのではないかな?
そんなことが、素朴な疑問としてありました。
出生数を増やすための対策も、必要かもしれません。
ただ、その施策が奏功しなかった場合のプランBを議論しないのは、何だかあまりにも楽天的に過ぎない? 変な感じ。
当時は上手く言語化しきれていない部分もありましたが、大枠としてはずっと、そんなことを思っていました。
何より、「人口増加」を前提とした人間の社会そのものが、ひとつの生物種のあり方としてとても不自然で、グロテスクなもののように感じていたのを覚えています。
自然界のピラミッドは通常、弱く、環境への影響が小さい生物ほど数が多く、強く、生態系への影響が大きい生物ほど少ない。
それが、全体としての調和の取れた、自然なバランスです。
自然界の一生物種として考えれば、人間は脆弱な生きものです。
力も弱ければ、繁殖力にも乏しい。
けれど「技術」という、身体的な能力を超えた力を手に入れたことで、人間はいつの間にか、自然界に対して最も大きな影響を持つ生物になりました。
なのにその生物が、こんなにも多くいて、それにも飽き足らず増殖し続けている。
いや、異常だろ。
当時は世紀末で、ノストラダムスの大予言、なんて終末論が流行りました。
でも、見たこともない預言者の言葉に大騒ぎするまでもなく、こんな不自然な生物は早晩滅亡するに違いない。ただそれが早いか、遅いかというだけのこと。
そんなことを、子供心に思っていました。
生意気なガキっすね。笑
そう、まどろっこしい話になりましたが、詰まるところ。
はたして、「子どもが減ること」そのものが問題の本質なんだろうか?
そんな疑問が、反語的な響きをもってずっと、私の中にはあったのです。
フィンランドの風景
話は一旦、旅の景色に戻ります。
アイスランドからの帰途。
トランジットでフィンランドに立ち寄った私は、乗り換えの時間を利用して、半日ばかりヘルシンキの中心部を散策しました。
ガイドブックは持っておらず、とりあえず一日乗車券が便利そうだ、という以外の事前情報はなし。
思いつくままのノープラン散歩でした。
目につく建物に入ってはぶらぶらして。
トラムから街並みを眺めて。
教会を訪ねたり港でボーッとしたり。
本屋さんで読めないフィンランド語やスウェーデン語を眺めたり、自国作家の英訳作品を固めておいているコーナーを見つけて、「おお、これ日本でも真似したらいいのに!」とひとり興奮したり。
最後には買った本を片手にシナモンロールをパクついて、とても満ち足りた気持ちと……そして、日本のあり方に対する燻るような焦燥感を抱えながら、空港へと戻りました。
足を運んだ中、1番驚いたのは、図書館です。
そうと知らずに入った建物は、老若男女、たくさんの人で賑わっていて。
2階の開放的なコワーキングスペースをうろつきながら、目を転じる毎に、その設備の幅広さに度肝を抜かれました。
ミーティングルームにコンピューターやモニターが据え付けられているのは、まぁ普通。
VR機器があるのも、今時だなぁ、と思った程度でした。
けれど、工作室があるのはあまり見たことのなかった光景です。
中には様々な工具や画材、素人には用途もわからない機械が置かれています。
手前のオープンスペースには、様々な種類のミシン。
コンピューターでは、CADを使って大きなディスプレイで製図をする人や、プログラムのコードを走らせている人。
更には3Dプリンター等の機器も、当たり前のように並んでいました。
もちろん、これらのすべてが無料というわけではありません。
30分いくら、等の使用料が付記されている備品もありました。
しかしその値段は0.5€とか1€とか、誰でも手の届くものでした。
3階は、開架。
ここまで上ってきてはじめて、あ、ここ図書館だったんだ、と気づきました。
エスカレーターで上って行って、そのまま壁沿いに進むと、目についたのはたくさんのベビーカー。
視線を転じれば、広々としたキッズスペースで、のびのびと絵本やおもちゃと戯れる親子がいました。
ラグビーボールのような形をしたフロアは、天井が高く、壁は一面ガラス窓で、あちこちに生えた木と相まって、まるで公園のような開放感。
壁沿いの広々としたスロープは滑り台のようで、子供が走り回ったり。
滑り下りたり、そこだけみると本当に、公園のような遊び場になっていました。
けれど、そんな子供の歓声も、木の床と、やわらかなカーブに波打つ天井と、広々とした空間が吸い込んでくれます。
静かに書き物や読書に没頭する人と。
楽しげに談笑する人々と。
元気に走り回る子供たちと。
我が家のように寛ぐ家族連れと。
そんな色んな人たちの時間と生活が、無理なく同居している。
そこは、不思議と居心地のいい空間でした。
そしてこれが、誰でも利用できる、「公共の場」であることに、「敵わないなぁ」という気分になりました。
もちろん、地理的にこの施設を利用できない人はたくさんいるでしょう。
ただ、こういったものが、公に提供されている。
アイディアがあれば、自宅に特別な機器がなくても、それを調達するお金がなくても、試してみることができる。
そういう機会が、市民のすべてに明け渡されている。
これが投資でなくて、何でしょう。
私は、フィンランドの現状はよく知りません。
けれど、以前に本で読んだ「教育費が無償」で「教育のレベルが高い」フィンランドの姿。国としての姿勢。
その一端を見たような気がしました。
フィンランド 豊かさのメソッド 集英社新書 / 堀内都喜子 【新書】
もう10年近く前の本。読んだ当時は学生だったので、教育についての話はなおのこと興味深かったなぁ。
もうひとつ……いや、ふたつかな?
印象的だった場面があります。
トラムに乗っているとき、ベビーカーを押す夫婦が入ってきました。
その時の、乗客の動きの迷いのなさ。
ひょろりとしたお爺さんも、杖をついて片足を引き摺っているお婆さんも、す、と自分の座っていた席を立って、ベビーカー用のスペースを空け渡しました。
夫婦も、それに気後れした様子なく笑顔でお礼を言って。
赤ちゃんの顔を覗き込んで、色々と話しかけるお爺さんや周りの人に応える表情は、とても誇らしげで、自信に輝いていました。
また別の場面では。
コンサートホールのロビーを散策していたとき、窓からの景色を背に、ポートレートを撮っている夫婦がいました。
カメラに笑顔を向ける女性のお腹は大きく膨らんでいて、明かに妊婦さん。
華やかな花柄のワンピースの柔らかい布地は、彼女の体型を寧ろ強調していました。
そのお腹に手をあてて微笑む彼女は、やっぱり堂々と、自信に満ちた雰囲気で。
とても綺麗でした。
ああ、そうだよな。
別に妊娠は恥ずかしいことでも、隠さなきゃいけないことでもないものな。
日本にいるときは、思ってもみなかったこと。
命を授かることは、その命を宿した体や、体型は、誇らしくて、美しくて、あたたかく歓迎されるものなんだ、と。
少なくともここではきっと、そうなんだ、と。
彼らたちが交わしていた言葉は何ひとつわからなかったけれど、だからこそ、そこに流れる晴れやかな空気の色を、強く感じました。
もちろん、どんな国にもそれぞれに、大変な事情はあるのでしょう。
それでも、こんな国でなら、子供を生み育ててみたいなぁ。
自然と、そんな気持ちになったことを、驚きとともに思い出します。
誰のための少子化対策?
この国で少子化問題の話題が取り沙汰されるとき、必ず議題に上るのは、年金問題です。
というか、ほぼそればかりでは?
メディア等で取り上げられる少子化問題の議論は、多くの場合、国民年金をはじめとする高齢者福祉の制度を、いかに破綻させず運営していくか、というところを主題としています。
そしてその制度を支える世代の「数」を確保するために、出生率上昇のための策が思案される。
このことに、違和感を覚えます。
少子化の時代を、一番長く引き受けることになるのは、誰でしょう。
子供たちです。
それならば、その子供たちを中心に据えた議論も、もっと広くなされる必要があると思うんです。
人口減少の時代を生きるならきっと、一人ひとりが自分の能力を伸ばして、発揮できるようにしてあげた方がいい。
そのためには、教育はとても大切です。
それから、人種や性別、病気や障害といった様々なスティグマを理由に、個人を評価の土俵から下ろしてしまう偏見も、ただただ勿体ない。
社会のシステム自体も、貴重な労働力を徒らに浪費する要素があるなら、改善した方がいいでしょう。
理不尽や過重労働に心身の健康を損なうことは、個人にとっても、社会にとっても、大きな損失です。
そんなふうに、一人ひとりがのびのびと育ちパフォーマンスを発揮できる環境を作っていけたなら。
理想論かもしれませんが、そういった取り組みこそ、少子化問題の根本的な解決策のひとつなのではないか、と。
そんなことを、私は思うんです。
そしてこういった「無理にたくさん子供を生まなくてもいい、人口が少なくても回っていく社会」を作っていくことは、逆説的なようですが結果的に、「子供を生み育てたい社会」を作ることに繋がるのではないでしょうか。
経済的な問題や、仕事の忙しさ。
子供を持ちたいけど持てない事情は人それぞれですが、それは、今の労働世代にが背負わされている負担の写し鏡です。
何より。
子供自身にとって、子供を大切に思う家族にとって、子供は「数」ではありません。
高齢者を、社会を支えるために、苦労を強いるために子供を成すわけじゃない。
幸せになってほしい。願っているのは、そういうことです。
出産や育児に助成金を出そう。何歳までの医療費を無料にしよう。
そういった施策がどれだけ練られても、それがただ「数」を増やすことだけを考えているのなら。
親になることを望む多くの人の心に、本当に寄り添うことは難しいのではないかと思います。
子供は宝。
トラムの中で笑顔の大人たちに囲まれる赤ん坊を見て、この国では本当に、そんなふうに子供が大事にされているんだな、と感じました。
そしてきっと、子供にもその親にとっても、それは何よりも心強い支えだろうな、とも。
みんなが子供のことを思って、子供が健やかに育っていける社会のあり方を考える。
本当の少子化対策はたぶん、そういうところからはじまるのではないかと。
自分にできることを上手く見つけられないまま、ずっと、そんなことを思っています。