ご無沙汰です。
もう随分と時間が経ってしまったけれど、久々にアイスランド旅行の話を。
さて。
アイスランドを訪れる人の多くがそうであるように、今回の私の旅の目的も、その豊かな自然を体感することでした。
空港からレイキャヴィークに向かう途中、ブルーラグーン(人工の巨大な温泉施設)でフライトの疲れを癒し。
翌日から意気込んで参加したのは、南部から東部にかけての氷河地帯を巡る3日間の現地ツアー。
まだ暗い朝方、ソワソワと落ち着きなくピックアップ場所に佇む私を迎えてくれたのは、声も笑顔も体格もダイナミックな、気のいいバイキングでした。
コンパクトなマイクロバスに乗り込んで、荒凉たる溶岩石の島国を巡った3日間。
この陽気なツアーガイドさんには、本当に良くしてもらいました。
ツアーの終わりには、「次の旅先は日本だ!」と、割と本気のトーンで盛り上がって、らしくなくしんみりしたハグと共に別れを惜しんでくれた彼。
実際に日本を訪れてもらえるのは、そして案内してあげられるのは、いつになるのかなぁ……。
そして、他のツアーメンバーも、実に気さくで親切で。
ひょっとしたら、10人ほどのメンバーの中、私が唯一の日本人で、一人参加で、一際シャイに見えたせいもあったかもしれません。
けれど一番”効いた“のは、初心者には緊張も疲労も、時には少なからぬ恐怖も伴う氷河ハイク(氷に覆われた山を、アイゼンを履いて登っていくんです!)を、みんなでクリアした高揚感だったのでしょう。
国籍も住んでいる国も人種も職業も、みんな見事にバラバラだったけれど、2日目にはまるで古くからの友人のように打ち解けて、不思議な一体感に包まれていました。
一人旅だった今回、私の旅のポートレートは、間違いなく過去最多でした。
写真に苦手意識があって、普段は風景や友人の写真ばかりで埋まっていく私のスマホ。
それが旅の終わりには、ツアーメンバーが撮ってくれたり、送ってくれた写真で、いつの間にかいっぱいになっていました。
大変だったけど楽しかった氷河ハイク。こーんな氷の斜面を、隊列組んで登りました。
でも、どうしてあんなに気負わず過ごせたのか?
私は、外国で気が大きくなるタイプでもないし(どちらかというと縄張りに篭っているのが好き……)、人に気を遣われるとめちゃくちゃ恐縮して萎縮してしまうところがあります。(面倒くさいやつっすね、うん。)
みんなに「良くしてもらった」けど、恐縮したり遠慮したりせず、お互いに気持ちよくやり取りできたのは何でなのか。
前の記事でふれた、個人のあり方による部分も大きいのかな、と思いつつ……
www.murr-ma.work
もうひとつ。
「社会」についても考えさせられるところがあったので、今回はそれについて、掘り下げてみようと思います。
“Keep you safe!”
“Stay safe!”
ツアーに参加した3日間。
氷河ハイクやアイスケーブ(氷の洞窟)探検など、特別な装備やガイドが必要な一部の行程を除いて、目的地でのプランのほとんどは自由行動でした。
バスが止まって、集合時刻が告げられ。
時には、この先トイレは2時間行けないからね、明日は昼食を取れる場所がないからここで食料を確保しておいてね、なんて、極めて実際的なアドバイスが添えられることもありますが、その土地についての説明は最小限。
どっちに行ったら何が見られるよ、と方向を軽く教えられた後は決まって、「それじゃ気をつけて!」の一言と一緒に、元気いっぱい送り出されました。
正直、最初の目的地では、やや拍子抜けしました。
日本で参加したことのある数少ないバスツアーでは、ガイドさんは決まって、こちらが覚え切れないほどの蘊蓄を蕩々と語り、到着した先でも旗を持って先導して、あれやこれやと教えてくれたものです。
「あれ? 何も指示してくれないの?」
そんなふうに面食らって、何か聞き逃したかな? と、ガイドさんの顔をじっと見返してしまったりして。
結果、おじさんと無駄に微笑み合った謎の数秒間。笑
でも、そんな置き所のない不満ともつかない気分も、目の前に広がる雄大な地形を目にした瞬間、すぐさま感動と興奮に置き換わりました。
圧倒的な大地!
そして、笑っちゃうくらいの暴力的な風!
ビニール傘を持っていたら、台風中継を上回る激しい立ち回りになったことは確実ですが、それ以前に命の保証はないな。という強さでした。
これ、飛ばされたら確実に死ぬやつ!
大陸プレートの上からの眺め。足元にはぽっかりと割れ目が口を開けています。落ちたら死ぬ……!
「……なるほど。自分の身は自分で守りましょう、てことね」
身の危険を感じるほどの荒っぽい自然に、何故か異様に盛り上がってニヤニヤしつつ。
うっかりすれば巨漢も谷間へ落ちそうな、スカスカの柵にしがみ付いて執念深くシャッターを切り、大陸プレートの境を嬉々として歩き回りながら、ガイドさんの”Keep you safe!”が何度も耳の奥で響くのを感じていました。
そんなふうにはじまったツアーは、体にも心にも頭にも、たくさんの新鮮な刺激を与えてくれました。
朝日を受けて輝く雄壮な滝。
山脈から迫りくる氷河。
黒い砂浜にゴロゴロ転がる、冗談みたいに巨大で澄み切った氷河の塊たち。
星空の向こうに、微かに棚引くオーロラの端っこ。
生きる物の気配もなくただただ果てしなく広がる、溶岩石が覆う黒い地平。
ツアーガイドの彼は、ガイドブックのような説明を蕩々と語ることこそなかったけれど、こちらの疑問やリクエストには、いつも100%以上のものを返してくれました。
想像を遥かに超えたスケールの自然と、そこに生活する人々に向き合いながら、ふと湧いた疑問を投げかけて。
そこから始まる話に、耳を傾けて。
そうやって過ごす中で、私の無意識下には当初、「充実したいいツアー」=「至れり尽くせりの甲斐甲斐しいツアー」という、随分と偏った認識が植わっていたんだなぁ。
なんてことにも気づきました。
考えてみればそもそも、ツアー参加者のほとんどは大人です。
いい大人が、誰に強いられた訳でもなく申し込んで、好き好んで参加したツアー。
何を見たいか? 何がしたいか?
一番よく知っているのは本来、そこに「来たい」と思った本人のはずです。
同じ場所に立っていても、みなが同じものを求めているとは限りません。
みんなに同じものが見えているとも限りません。
自然の恐さも、雄大さも、自分自身の肌で感じて、向き合って。
だからこそ深く深く、心に染み入って、その時の感覚は、今も私の中に残っています。
そうして、その出会いのための足となり、安全確保や情報提供などのサポートを目一杯してくれるのが、ツアーガイドの役目。
あぁ、こんなふうに自由度の高い、のびのび楽しめるツアー旅行もあるんだなぁ、と、何だか新鮮な気分でした。
パノラマ撮影で何とか収まった黄金の滝。更にこの直下にもう一段滝が続いています! 人が米粒を通り越して埃のようなサイズに。笑
もちろん、そういった自由は、責任と裏表です。
安全の確保も、集合時間に遅れないための時間管理も、誰かがしてくれるわけではありません。
けれどそこには同時に、困ったときにはきっと手を差し伸べてもらえる、という信頼感、安心感もありました。
お客さんだから、というのとも、どこか違う感じ。
個人の責任と、助け合いの精神が、当たり前に共存しているような。
そんな空気がありました。
その根にあるものが何なのか。すとんと腑に落ちた瞬間がありました。
アイスケーブ(氷の洞窟)を訪れたときのことです。
氷河の一部が融けてできた、天然の洞窟。
1つ目のアイスケーブでは、上下左右を氷河に囲まれた空間の、蒼く澄んだ光と空気に歓声を上げて。
2つ目に訪れたのは、火山灰混じりの洞窟。
快晴の日には、「スーパーブルー」とも呼ばれる深い青に染まる天井は、あいにくの曇天の中、暗く沈んでいました。
それでも、記念撮影で雰囲気を盛り上げてくれたガイドさんは、洞窟の壁を照らしながら、徐ろに氷河の成り立ちについて語り出しました。
アイスランドの山々に降り積もる雪は、うずたかく層をなして、それ自身の重みで押し潰されながら、ゆっくりと冷やし固められていきます。
強い圧力の下、25mの雪が、やがてはわずか5cmの氷の層になって。
そうやって、空気もほとんど押し出されてしまうから、氷河は通常の氷よりも遥かに固く、澄み切っている。
そしてその層の間に地層のように線を引く火山灰の層は、アイスランドの山々が繰り返してきた噴火の歴史を、そのまま刻んでいます。
「この氷河から溶け出した水が、街に流れていって暮らしを支え、やがて海に流れ着く。
そうして海からの水蒸気が雲を作り雪を降らせ、それがまた新たな氷河を作る。
循環だね。とっても、大きな循環だ」
前日に海岸でふれた氷河の、クリスタルのような純度に驚き、「これは相当に空気含有量が低そうだぞ! 固まるときの圧力の問題かしら?」と興奮していた私は、正にその答え合わせができたことにウキウキしながら。
続く言葉に、なぜだかひどく、胸を打たれました。
「そして僕たちも、この循環の一部だ。
死んだら土や海に還って、水蒸気は雪になって、また新しい命の一部になっていく。
大きな循環だ」
何だか真面目な空気になっちゃったね、と。
わずかの間をおいて、照れたように笑った顔を見ながら、あぁ、これは言葉面ではなく、実感としてこの人の中にあるものなんだな、と強く感じました。
人間は自然の一部。
様々なかたちで言い尽くされた、時には陳腐にも響いてしまう言葉です。
でも、アイスランドの人たちは、油断すれば命をも脅かされる自然の恐ろしさとともに、心の深いところでそのことを理解しているのでしょう。
日常的に自然を相手取る、ツアーガイドだけではありません。
冬の嵐に見舞われた旅の最終日。
建物の中で悪天候をやり過ごす旅人たちを迎えてくれたレイキャヴィークの人たちは、基本的にはにこやかだったけれど、安全のための警告やアドバイスからは、油断と隙のなさ、そして、互いの無事を祈る気遣いが、当たり前のように顔を覗かせていました。
厳しい自然の中で生き延びるためには、まず自分で自分の身を守ろうという自覚が必要です。
でも、自然の前に、人ひとりの力は限界がある。
だから、困っているならば助けを求めるべきで、助け合うのは当然で。
ああ、そいういうことか、と納得しました。
圧倒的な自然の中。
彼らは、自分の身を自分で守ることの大切さを、身をもって知っているんだと思います。
そしてそれと同時に、この世には、自分一人では乗り越えられないものがたくさんあることも、ごく身近な事実として受け止めているのでしょう。
そして、そんなことを思う中で。
ふと、日々の暮らしの中で感じていた、「自己責任」という言葉への違和感の正体に気づきました。
日本で生きていれば、自然の脅威、命の危険を身近に感じることは、アイスランドに比べると少ないのかもしれません。(治安はアイスランドの方がいいですが)
けれどどういった環境でも、自分ひとりで解決できない事態に直面することは、誰にだってあり得る可能性です。
真面目に日々を過ごしていても、少しの不注意や不運から、窮地に陥ってしまうことはある。
そんなとき、「そんなの準備してない自分が悪いよ。自己責任だよ」と突き放されるのが当たり前になってしまったら、それははたして健全な社会といえるのでしょうか。
だって、そもそも自分ひとりで生きていけるなら、社会なんて誰にとっても必要ありません。
人間は、生物としては決して強くも、丈夫でもない。
それでもこうやって長い歴史を築いてきたのは、社会を作り、相互に補い合うことで、個人では乗り越えられない困難や脅威を乗り越えてきたからです。
自分の生に責任を持って懸命に生きることと、助け合うことは、矛盾しません。
むしろ、様々な苦難を背負って乗り越えてきた人ほど、個人の能力の限界や、他人からの思いやりのありがたさを知っていたり、やさしさを備えていたりするように思います。
社会に生きる自覚と責任感の前では、遠くの誰かの窮地は、決して他人事ではありません。
過酷な労働環境。
貧困や教育の格差。
いじめや差別。
社会の歪みが生んだ貫穿は、何かが少しでも違っていれば自分が陥ったかもしれない……あるいは、明日にも自分事になるかもしれない問題です。
だからこそ本来は、社会に参加する皆が向き合い、考える義務がある。
もちろん、あまりにも自覚の足りない、「それはお前が悪いよ!」と言いたくなる場合があることも確かでしょう。
けれどいま、「自己責任」という言葉が口にされるとき、
その出来事を社会全体の問題として引き受けたくない。
難しいことを考えたくない。
自分は関係ない。
そんな、逃げ腰な傍観者の心持ちを感じることが少なくありません。
「自己責任」は、社会参加の放棄や、免責のための言葉ではありません。
決して、無関心と排他の免罪符ではない。
もしも私たちが、そういったかたちでこの言葉を使い続けたのなら。
いつか転んで、自力で立ち上がれなくなったとき、無情な社会を前に、きっと自分自身が途方に暮れることになるのでしょう。
私たちはどれだけ努力して、どれだけ成長しても、決して完璧にはなれない。
それこそ自然の脅威や予想外の事態の前では、まったく無力になってしまうこともあります。
自然の大きな循環の前では、本当にちっぽけで短命な、取るに足らない存在です。
それでも。
一人ひとりの目線に立ってみれば、その人生の中には数えきれないほどの喜びや悲しみが詰まっていて、誰かにとってはきっと、欠けがえのない存在で。
だから、どんなに小さく、つまらなく見える人生にも、守られる権利はあるのだと思います。
はじめて氷河にふれたとき。
想像していたのとは、普通の氷とは全く違うその存在感に、呆気にとられました。
実物を前にするまでは、ただ、大きい氷なんだと思っていました。
違いました。
宝石のように固く、澄み切っていて。
一面に氷河が散らばる砂浜が、「ダイヤモンド・ビーチ」と名付けられたのも、肯けました。
まぁ、人の背丈より大きい氷河もあったので、あれがダイヤモンドならみんな大富豪になっちゃいますけど。笑
長い年月をかけて固く押し固められた、密な氷は、手でふれてみてもほとんど解け出すことはありませんでした。
氷河の塊に手のひらを押し当てて、乾いたままの皮膚がどんどんと冷たくなっていくのを感じながら、「なるほど、これが解け出すというのは、本当にとんでもないことなんだ」と実感しました。
アイスコーヒーに浮かんだ氷が解けてなくなるのとは、訳が違う。
「氷河が減少している」という事実の深刻さ、恐ろしさを、やっときちんと理解したという気がしました。
問題に向き合っていても、目を背けていても。
いま私たちが生きているのは、間違いなくそんな一大事が起こっている時代です。
気候危機の時代は、各人の責任感と、その上に成り立つ支え合いなしには、きっと乗り越えてはいけない。
自然は、人間の逃げにもごまかしにも付き合ってくれません。
「それはあなたの問題でしょ」と切り捨ててることは、一時の安心を与えてはくれるかもしれない。
けれどそれは、安全を保証してくれるものではありません。
私はどうせなら、仮初の安心よりも、確かな根拠のある安堵を得たい。
それならまずは、「自己責任」という言葉を封印してしてしまうところからはじめてみよう。
そんなことを、心ひそかに決意した旅でした。