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コモンズ周りを考える【WIRED vol.42を読みながら】

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こんにちは、むるまです。
最近、世の中で「コモンズ」という言葉を耳にする機会が増えたように思います。
政治的にも地球環境の面でも、社会問題が山積している現代。
そんな中で、共同体のあり方を問い直したいと感じるのは、ごく自然な希求なのかもしれません。

かくいうわたしも、コモンズは長らく気になっているテーマのひとつでした。
そこへきて、今回のWIRED最新号のテーマが『NEW COMMONS』。

これは読まずにいらいでか!
というわけで、発売日当日に購入し、じっくり読んで色々と考え。
いい機会なので、コモンズに対する個人的な物思いのあれこれを、整理してみたいと思います。

コモンとパブリック

「コモンズ」の話に行く前に、まずは「コモン」について。

コモン(common; 共通の、公共の)という言葉は、ラテン語のcommunis(共通の)が語源となっています。
これは、com(共に)+munus(義務、分担)という語から来ており、社会で何かを共有する、共同で管理するという意味合いが含まれています。

これに対して、同じく日本語の「公共」に対応する言葉として、パブリック(public; 公の、公衆の)という言葉があります。
これはラテン語の populus(=people; 人々)から派生した publicus(国民)という語が元になっているとされていますが、そこからやがて、「官庁の」と「民衆の」という両極の意味を持つようになりました。
public school といえば公立学校を指しますが、public house といえば大衆酒場を意味するのだから、面白いものですね。

しかし古くはどちらかといえば、「お上の」という意味合いで使われていたこともあり、日本語のパブリックは「公式の、公衆の」といった意味合いが強いように思います。
「パブリックな場」(≒公衆の面前)と言ったときイメージされるのは、多くの場合、折目正しい振る舞いが求められるいささか堅苦しい場ではないでしょうか。

さて。
こんなことをくだくだしく書いたのは、日本の「公共の場」においては、実はコモンな空間はかなり少ないのではないか、と感じているからです。
『46歳で父になった社会学者』という本で、筆者の工藤氏は、子連れでの外出のハードルの高さや、子連れが許容される空間の少なさを実感として綴りながら、日本の公空間におけるコモンとパブリックの問題について言及されていました。

たとえば電車の中。
コモンと考えるなら、そこは、すべての人に開かれた空間であるはずです。
しかしパブリック、とりわけ日本的な公平性や規律が求められるパブリックな場と捉える人にとっては、大人のルールを守れない赤ん坊や幼児、もしかしたら、場所を取るベビーカー連れの保護者に至るまでが、受け入れ難い存在として写るかもしれません。

このように、コモンパブリックそれぞれの「公共性」が含意する、
「すべての人に開かれてあること」「すべての人に公平に規律を求めること」とは、常に部分的な矛盾をはらみます。
しかしこの矛盾の解決を試みるとき、日本の公共空間は、後者を優先し、少数者に沈黙と服従を強いる傾向が強いように思うのです。

そしてそれは、多くの人が今の社会に対して感じている、閉塞感の一因ではないかと。
そんな思いから、わたしはコモンズに関心を寄せるようになりました。

コモンズとは何か

それでは、そもそもコモンズとは何か。
これは元々、海や森、牧草地などの自然資源を、一定のメンバーにおける共同利用地と捉える管理する方法を指していました。
過去、乱獲により度々失敗してきたこれらは、「コモンズの悲劇」とも呼ばれましたが、環境問題への対応が求められる中で、グローバル・コモンズ(global commons)としての地球環境の保全に示唆を与えるものとして、近年では再び注目されてきています。

こうしたコモンズを悲劇ではなく、喜劇に導くための論点として、WIREDでは

  • 資源の持続可能性
  • 合意形成のあり方

の2点が挙げられていました。
これらは、ノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムによる
「資源をどう使うかを市場の自由競争ではなく、協調と合意形成に決めさせることが、コモンズがうまく機能するための条件である」との主張に基づいた提案です。

コモンズの成立に必要なのは、新自由主義的なリバタリアンでも、コロナ禍でしばしば注目を集める専制国家的あり方でもありません。
求められているのは、民主主義のupdateなのです。

民主主義は多数決ではない

この点についてWIREDでは、さまざまな民主主義のアイディアや、Dxがそれらの実現に果たす役割について、様々な角度からその現在地と展望が語られています。

これらを読んで感じたのは、課題の多さもさることながら、まず第一に民主主義というシステムの持つ伸び代。
そして第二に、日頃わたしたちが「民主主義」として捉えているものが、いかに矮小化された姿をしているかでした。

WIREDでは、コモンズによる秩序形成がはらむ盲点として、一部の富める人々による権益の独占と、それにより排除された人々に対する眼差しの欠如が語られていました。
そして、それを乗り越えるための処方箋は民主主義であると。
なぜなら、社会にいる人すべてを構成員として扱うことが、民主主義の理念であり、多数派の外から異議申し立てを行う人が出てきても原理的に排除できず、それゆえに自己修正能力を有するのが民主主義であるから、と続きます。

これは、いま日本の政治で見られるのとは、異なる風景のように感じます。
わたしたちの多くが実体験として知っている民主主義は、多数決とほぼイコールです。
しかしそれは、民主主義の本質ではありません。
人民の意思が政治を動かすことこそ、民主主義の本意です。

多数決は確かに、便利で、一見すると明朗な手段です。
しかしこれは油断すれば、容易に同調圧力と結びつきます。
忖度や、少数派の沈黙、諦めを呼んでしまえば、民主主義本来の理念を失ったそれは、最早抜け殻としか言いようのないものになってしまうように思われます。
そして、現在日本の行政で行われている多数決の多くはこうした抜け殻であるように、わたしには思えてなりません。

(話は逸れますが、先日こちらの動画を拝見して、
日本語でいう忖度は、ドイツ語では「先取り的服従」を意味する言葉なのだと知りました。これまた、なんとも含蓄の深い話です。↓)

まとめ

と、いうわけで。
コモンズについて書くと言いながら、実際に書き始めてみるとその周辺の話に終始してしまいました。
でも結局、書きたかったのはこれだったのかな、という気がします。
だって日本の場合、まず健全なコモンズを形成できる下地を手にすることが、現時点で一番の課題のように思えてしまうのですもの。

日本社会は、同調圧力の強い場だと思います。
同調圧力は、変化が大きな負のリスクを伴う状況下においては、安全弁として一定の働きを果たすものなのでしょう。
けれど、気候危機や少子高齢化、人口減少など、これまで人類が経験したことのない様々な変化を避けられない、これからの時代においては、むしろ健全な合意形成を妨げ、集団に不利益をもたらすものだと、わたしは思います。

そんなわけで、順繰りたどってみれば、結局わたしがたどり着いた結論は、いつもと変わり映えのしないものでした。

小さな声に耳を傾けること。
諦めずに声を上げ続けること。
そのことの重要性を、これからのコモンズに思いを馳せながら、改めて認識したひと時でした。