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チョコレートとコーヒーの甘くない話。

こんにちは、むるまです。
先日、『チョコレートの歴史』という本を読みました。
マヤ・アステカ文明で育まれたチョコレートが、ヨーロッパの王侯貴族の間で飲み物として広まり、やがて大衆的な食べ物として定着するまでの歴史と魅力について語り尽くした、とても濃密な一冊。
その中で個人的に、チョコレートと貧困の関係について衝撃を受けた部分があったので、ここしばらくの考え事と併せてご紹介します。

チョコレートは労働者のために

十九世紀、産業革命後のイギリスでは、労働者の貧困が問題となっていました。
工場での賃金が悪いわけではなく、むしろ上昇傾向にあったにもかかわらず、拡大していく貧富の差。
その背景には、過酷な労働状況と、飲酒の問題があったようです。

元々は、人々が自分に合ったペースで、時に一休みしたり、時に雑談に興じたりしながら励んでいた仕事というもの。
しかし、蒸気機関での機械作業を軸とした工場労働では、人間は機械に合わせて、ほとんど休みなしに働くことが求められました。
そんな中、限られた時間で効率よくエネルギーが摂れると重宝されるようになったのが、アルコール
当時のイギリスではいつしか、働きながら飲酒するのが、当たり前の光景になっていったのだそうです。

そして、その結果生じたのが、飲酒による健康被害と、経済的な圧迫、家族ぐるみの貧困でした。
これを大きく問題視したのが、フライ、キャドバリー、ラウントリー、テリーっといった、名門実業家のクエーカー教徒たち。
クエーカー教の信条は、清貧、平和、誠実さや、男女や民族の平等。
そんな彼らにとって、貧困は長く、克服すべき課題でした。

彼らはアルコールに代わるエネルギー源として、チョコレートに着目します。
労働者が仕事中に手軽に口にできる、固形のチョコレートを安く量産することで、アルコールによる貧困から労働者を救おうと考えたわけです

現在、どこのスーパーやコンビニに行っても見かけるキットカットも、元々はラウントリー家が作っていたものでした。
キットカットのオリジナルであるチョコレート・クリスプが誕生したのは、貧困調査の著作でも有名なベンジャミン・ラウントリーが社長だった頃のこと。
ヨーク市民の貧困に心を痛め、老齢年金や子ども手当の創設にも貢献したラウントリーが、カカオ生産をめぐる児童労働の現状を知ったら、どんな顔をするのだろう。

本書を読みながら、そんなことを考えてしまいました。

ネスレと児童労働問題

日本で販売されているキットカットの現在の製造元は、ネスレ。
ネスレといえば以前、そのカカオ生産が児童労働で支えられている現実について、ニュースにもなりました。
これはそもそも、カカオの持続可能な調達を目的にネスレが2012年、児童労働モニタリング・救済制度を導入したことにより顕在化した問題。
人権・労働問題に取り組むNGO団体Fair Labor Association (FLA)と、大手食品業界で初となるパートナーシップを結び、同社にサプライヤー監査を依頼した、その調査結果が元となったのが、前述のニュースでした。
ネスレは、2025年までにカカオに対するサスティナビリティ・アクション「ネスレ・カカオ・プラン」の承認を受けたカカオ調達を 100% にすることを目標に、現在も児童労働の撲滅に取り組んでいます
Nestlé scales up action against child labor and expands cocoa sustainability program

しかし、チョコレート業界全体としてみれば、コートジボワールとガーナのカカオ栽培地域における子どもの労働割合は、2008〜2019年の間に 31% から 45% まで増加しているという調査結果もあります。
要因は種々あれど、根底に横たわるのはやはり、根深い貧困の問題。
違反者にペナルティを課すことでは、子どもの労働力を頼まざるを得ない貧しい家族経営農家への抑止力にはならないという、厳しい現実があります。
チョコレート業界が児童労働問題に苦戦するワケは

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贅沢品を贅沢品として味わう

わたしは、コーヒーが好きです。
昔は一日に何杯と飲んでいた頃もあったし、出先で飲み物を頼む時も、ほとんど無意識的にコーヒーを選んでいました。
けれど最近は少しずつ飲む量を減らしていて、多くても一日一杯まで。
時には、飲まない日もあるくらいになりました。
コーヒーを飲むときは何となくではなく、「本当にコーヒーを飲みたいとき」に、丁寧に豆を挽いて大切な一杯を淹れるようにしています。

理由の一つは、カフェインの摂取を控えようと思ったこと。
けれどそれ以上に大きな理由は、コーヒーがわたしにとって安くない買い物ならば、それ相応の贅沢品として扱うべきだ、という思いでした。

フェアトレード(公正取引)という言葉があります。
発展途上国の原料や製品を購入する際に、適正な価格で継続的な取引を行うことで、立場の弱い途上国や生産者の生活改善や、自立を図ろうとする考え方です
フェアトレードが敢えてそう称される背景には、アンフェアな実態があります。
それは、先にふれたカカオ豆だけでなく、コーヒー豆の流通にもいえること。

国債市場におけるコーヒー豆買取価格の暴落にしばしばさらされるコーヒー生産者の多くは、時に生活や生産に必要な利益すら得られない、不安定な生活を余儀なくされています。
コンビニで百円出せば、淹れたてのドリップコーヒーが味わえる時代。
スーパーに行けば、千円足らずで400g、500gのコーヒー豆が買えてしまう世の中。
そんな中で、フェアトレードのコーヒー豆は、ともすれば高額に映ります。
けれど、その価格が生産者に適正な対価を約束できる最低限ならば、安く買い叩いた商品の「安さ」は、いったい誰が請け負っているのか。
自分が支払わずに済んだ数百円が、どこかで誰かの困窮の種になっている可能性はないのか。

そう考えた時、わたしはお得な買い物よりも、気持ちのいい買い物がしたいと、シンプルにそう思いました。

生産者への対価を織り込んだ価格を高いと感じるならば、それはわたしにとってその品物が、本来普段使いには適さない贅沢品だということなんだと思います。
それなら身の丈通り、贅沢品は贅沢品として、大切に味わえばいい。


いまの日本は、安価な食品にあふれています。
けれどコーヒーも、チョコレートも、牛丼もありとあらゆるファストフードも、その品が安く手に入れられなければ、明日わたしの生活が破綻するというわけじゃない。
もちろん、忙しくて食生活に構うゆとりのなかった時、お金がなくて一円でも安いものを探していた時、そういったお店のお世話になったことは、一度や二度じゃ利かない。
ものすごーく助けられてきたな、そうしたもののお陰で生き延びられたな、という部分も、たくさんあります。
けれどいまのわたしは、それを口にし続けなければ生きながらえないわけでもない。
誰かの貧困を引き換えにしてまでそれを選び続けなければいけない理由は、いまのわたしにはない。それは幸いなことです。

一生懸命働いて、少しずつ生活にゆとりを持てるようになって。わたしは以前に比べればたくさんの「選ぶ自由」を手にすることができるようになりました。
せっかく手に入れた自由なら、自分を取り巻く世界が少しでもよくなりそうな方に振り向けたい。
巡り巡ってやがては自分自身の首をも締めそうな、「より安く、より多く」という貧困のサイクルの外側に、手を伸ばしたい。

そんなことを思いながら今日も、とっておきのフェアトレードコーヒーを、じっくりと味わうのでした。

■参考図書