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勉強熱心なあなたへ【論文は答えじゃないという話】

ご無沙汰しています。
ブログも随分サボってしまって、ゼロ・ウェイスト的に書きたいあれこれも溜まっている現状なのですが……

本日は、以前からうっすらと気になっていた「論文」についてのあれこれを、少しまとめてみようと思います。
と言っても、環境問題についての重要な文献をレビューする……といった趣のものではなくて。

「論文」とはそもそもどういうものなのか?
どう受け止めて、自分の日々の中にどう落とし込んでいけばいいのか?
その辺りについて、一度思うところを話してみたいなぁと考えたのでした。

環境問題に取り組んでいる方は、とても勉強熱心な方が多いと感じます。
本やインターネットで勉強していると「論文で〇〇という結果が出ている」といった記述にふれる機会も少なくないと思うのですが……
そうしたとき「論文に書いてあるなら、間違いない!」という理解の仕方をしてしまうことで、偏った思い込みを形成してしまうというのも、どうやら結構あることなのかもしれない。
そんなことに、TwitterなどのSNSを使うようになって気づきました。

善意と勘違いのコンボは、悲劇の源泉です。
たとえそれが間違った情報でも、誰かが良かれと思って発信した「勘違い」は、その人が信頼されるいい人であればあるほど、広く広まってしまうだろうし。
その「勘違い」が信念の域にまで高められてしまえば、互いの「良かれと思って」のぶつかり合いが、無益な諍いに発展してしまうこともあるでしょう。
物語の世界では、正義の敵は悪ですが、現実世界では、シンプルな悪役ってあんまりいません。
圧倒的に多いのは、それぞれに自分が正義だと信じている者同士の対立。
みんな、自分は正しいと思ってるからこそ折れないし、躍起になるし、相手への言動が多少過激になっても許される、と考えるのです。

でも、それって何だかしんどいよね。

そんな中で、ゆるふわに生きたい私なりに何かできることはないかな、と思案して、

皆さんの「論文に対するリテラシー」を高める助けになるものを書こう。

と思い至ったのでした。
未熟者ゆえ、それこそ研究畑でバリバリやってる方からはお叱りを受けるような、解釈や表現の甘さはあれこれ出てくるかな、と思いますが。
あくまで一個人の見解として、多少なりとご参考になる部分があれば、幸いです。

そもそもお前は誰やねん。

改めまして、むるまです。
今回は論文についての話なので、私がどういったバックグラウンドを持って喋ろうとしているのか、読み手の方の判断材料になりそうな情報を書き添えておこうと思います(メディア・リテラシー的には、書き手がどういう来歴の人間かというのは割と重要な情報なので) 。 そういうのいいよ、て方は、読み飛ばして下さい。

以下、身バレしない範囲で。
大学での専門はざっくりいうと生物学系。
そのまま同分野の専門職として数年働いた後、改めて基礎系の研究をすべく、今年から大学院博士課程に進学しました。
自分の勉強のために、先行研究の論文を読みあさっているのは勿論ですが、仕事では実際に「使うため」の知識を求めて、日常的に論文を読んでいました……というか今も読んでいます(←なし崩し的にまだ働いている人)

書き手としては半人前以下。
読み手としても、あまり広い見識を持ち合わせているわけではないので、どうしても、自分の経験に基づいた偏った話にはなってしまうと思います。
でも、普段「論文」と馴染みが薄い生活を送っている方にとっては、参考になる部分もあるのではないかな。

そうですね。
ちょうどいいので、まずは実際に私が論文を「使う」とき、どういった読み方をしているのか、ご紹介してみましょう。

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論文、こんな風にして使ってます

①集める

まず、自分の調べたいことに関連する文献を集めます。
やり方はほぼほぼ、ネットサーフィンと同様。
Google scholarや専門の検索エンジンで、まずはいい感じの検索ワードをあれこれ放り込んでみて。
そうして引っかかってきた数百〜数千の論文について、タイトルや頭出しの数行を見ながら、参考になりそうな文献……関連度が高そうで、比較的新しくて、被引用数(他の論文に引用されている回数)が多いものをピックアップしていきます。
このへん、ホントGoogleとかの検索アルゴリズムとやってること一緒ですよね。

新規タブで次々開いた文献は、斜め読みして、良さげなやつはPDFやショートカットでザクザク保存。
自分が比較的前提知識を多く持っている事柄で、よく纏まっている論文が見つかれば、この時点で数本〜10本程度に収まることもあります。
逆に、あまり詳しくない分野や、専門家の中でもまだ意見がまとまっていない領域になると、50本程度のファイルがフォルダにずらり、ということもあります。

まぁ、情報がほしい事案ほど、そもそも研究があまり進んでいなくてなけなしの数本しか出てこず……という悲しいことも少なくないのですが(遠い目)

②ざっくり読む

集めるフェーズが終わったら、全文献にざっくり目を通します。
これは、イメージとしては頭の中にフィールドマップを作るような作業です。
同じ事柄についての様々な見解を一気に読むことで

  • その領域の専門家が共有している「常識」や「疑問点・課題」
  • 一般的なアプローチや押さえるべきポイント

などが見えてきます。

そしてそういう土台ができると、各文献がそのフィールドの中でどういう位置付けのものなのか。
信頼できそうか、できなさそうか。
使えそうか、使えなさそうか。
それぞれの立ち位置やキャラの強弱が自然と見えてきて、地図のような、相関図のようなものが、なんとなく頭の中に出来上がっていきます。

よく、「何かについて勉強しようと思ったら、とりあえずその分野の本を10冊読んでみろ」なんてアドバイスを耳にしますが、やっていることはあれと一緒ですね。

例えば、山登りをしよう、と思ったとき。
身近に「この人に聞けば間違いない!」という詳しい人がいなければ、まずは色んな人に聞いてみたり、サイトやブログを覗いてみたり、たくさん本を読んでみたり。
とにかく、「あれこれ調べてみる」人が多いのではないでしょうか。
そうする中で、「夏山と冬山だと全然装備が違うらしい」とか「シューズも目的に応じて色々あるらしい」といった知識が溜まっていくとともに
「最初に話聞いたAちゃん、慣れてる風で喋ってたけどあれは知ったかやったな」とか「あのブログでは『軽装で大丈夫!』て書いてあったけど、間に受けてたらやばかったな」とか「このサイトはどうやらベテラン登山家さんたちからも信頼を集めているっぽいぞ」とか
段々と『見る目』が養われていくわけです。

文献検索も同様で、自分が詳しくない領域の場合は特に、この見る目を養う段階がとても大事だと感じています。

③厳選したものを読み込む

ここまでくると、どれが読むべき文献か、自然と選ぶことができます。
自分にとって必要な数本を選び、ここで、やっと腰を入れて精読に入ります。

ただし、論文を読むというのは、そこに書かれていることをただ鵜呑みにすることとは違います。
どういった前提や環境で、誰が、どういった手法で何を行ったのか。
結果の評価にはどんなバイアスが生じ得るか。
解析手法は適切か。解釈や議論に飛躍はないか。

そういったことに気を配りながら、そこからどういった結論がどの程度の信頼性を持って導き出されているかを、じっくりと消化します。

論文の良し悪しは、規模や雑誌名だけでは計り切れません。
規模が大きくても「ほーん……」て感じのものはありますし、小さくても、設計や目の付け所の良い、スマートで示唆に富んだ論文はたくさんあります。
査読は、名のある雑誌の方がしっかりしている傾向にはありますが、「なぜこれがこの雑誌に……?」と誰もが首を傾げるような文献が、有名雑誌にアクセプトされていることも、実際にはないではありません。
だからこそ読者は、きちんと批判眼を持って読むことが求められるのです。

④使えるか考える

さて。
論文を読んで良さげな知識を手に入れました。
ですが、それをそのまま自分の直面している疑問や問題に当て嵌められるかは、また次元の違う話になります。

どんな研究にも、それが行われた特定の条件があります。
その条件下で有効だったことが、自分が置かれている条件下でも有効か。
これは、論文の著者にはまったく預かり知らぬところで、自ら考えるしかないことです。
でも、とても大事なことです。

例えば、「午前中に高照度照明を使ったらうつが改善しました」というデータがあったとして。
毎日燦々と日の注ぐ南の島にいるうつ病の患者さんが、ライトを浴びてうつ病がなお……るわけないやろ!
というのは、まぁ誰しもつっこみたくなるうっかりですよね。
(光療法は、高緯度地域の日照量不足による冬季うつなどに対して昔から行われているようです)

でもこういう、「前提を無視して結果だけに飛びつく」情報の受け取り方、意外と日常ではやりがちではないでしょうか。
知人や、知人の知人(それはもはや他人……)といったたった一人の体験から、「〇で癌が治る」とか「△で痩せる」とか「□でアレルギーが治る」とか、特定のものを布教するトーク、結構よく耳にします。

いや、その人が良くなった事実は事実として、それがそのもののおかげかはわからないし、体質の違う別の人にも当て嵌まるかはもっとわからんからね!
静岡で食べた美味しいオレンジの苗が手元にあったとして、果たしてその子は、北海道の自宅で植えても美味しい実をつけてくれるのか。
なにがしかの情報を使う時には、そういったことについてもよくよく、考えてみる必要があるわけです。

論文に書かれているのは「正解」じゃない

既にして想定外の長さになってきておりますが……
ここまで読んで頂くと分かる通り、論文で得た知識を使う時、1本だけを読んで「どやー!」ということは、あんまりしません。※

なぜか。

それは「論文」というものがそもそも、何かを探求している「途上」で生み出された成果物に過ぎないからです。
もちろん、論文を1本書き上げ、アクセプトされることは、その研究者にとっては大変な成果です。いや、マジ頑張ったよね、てなる。
それが学位論文なら、当座の最終目標でもあるでしょう。
けれど、その分野の研究全体を通してみれば、そこはまだ、研究の途上です。
調べなければいけないことはまだまだ、それこそキリがないほどにたくさんある。
誰もが、遠く霞む真理のてっぺんに手を伸ばしていて。
一本の論文は、その足元に積み重ねられていく、石の一つでしかありません。

しかもこの石、全部が全部素晴らしく大きくて安定していて……というわけでは決してありません。
実験の手法がまずくて、他の人が同じようにやってみたら全く違った結果が出たり(大きな発見があると「追試が……」という話が出るのは、こういうことがあるからですね)
アプローチは良かったけれど、その後、数年の歳月を経て新しい発見がなされたら、実は結果の解釈がまったく間違っていたことが判明したり。
かつては常識とされていたことが、新しい発見でひっくり返ってしまう、なんていうことは、それこそ大昔から、飽きるほどに繰り返されてきた歴史です。
そして、そういう間違いも含めた、人類総出の壮大な試行錯誤の中で生み出されてきたのが、いまの私たちを支えてくれている知恵と技術なわけです。

データの改竄などが話題に上ることもありますが、研究に携わる人は皆、基本的には、真実の断片を見つけるために、世の役に立つ成果を得るために、日々粉骨砕身しています。
そして世に出るところまで辿り着いた論文には、確かに、著者や雑誌の編集者が「理がある」と考えていることが書かれています。
(オンラインジャーナルの増加に伴って、査読甘いなぁ……と感じる論文も増えてきている印象はありますが)

でも、「Aと言っている論文がある」ということと、「Aが正解である」ということは、決してイコールではありません。
それが正解かどうかを知るためには、少なくとも数年、その後のその領域全体の成果を眺める必要があります。
(実際、「Aである」という論文と「Aではない」という論文がいくつも出て、結局まだどっちか結論出てないんだよね。みたいな案件はたくさんあります)

「科学」や「研究成果」というものは、世間の目にふれるときには、ありがたいことではありますが、何だか華々しくてカッコいいもののように飾られがちです。
「最先端の科学」なんていうと、なんか凄そう、何でもスパッと解決できそう。みたいに受け止められることもありますが、実際にはそれは、過剰な期待と言わざるを得ません。

だって、科学が本当にめちゃくちゃ進んで、成熟し切った学問になっていたなら、そこにはもはや、「最先端」なんて存在しないはずなんですよね。
「先端」があるのは、いま正に進んでいる途上にあるからで。
その前方には必ず、広大な未開拓地が広がっているんです。

なので、現在「科学的にこう」といわれていることのすべては、正しく言い換えるなら、
「現在わかっている科学の範囲で合理的に解釈するならこう(だけど将来的に新しいことがわかったら全然違ってたってなるかもしれない)」となるわけです。

「めちゃくちゃ曖昧で全然科学的じゃない!」と思われるかもしれないけれど、
それこそが「科学=未知の探究」だったりするのです。

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さて。
こういううだうだした話を聞いていたら、その途上の成果物一つを持ってきて、「これが正解だ!」と断言するのが、いかに危うい話か。
何となくイメージしていただけるかなぁ、と思うのですが……いかがでせう?

※ もちろん時には、たった一本の論文を巡って、同僚や上司とあーだこーだ盛り上がったりすることもありますが、それは元々その分野の論文をあれこれ読んで、基礎知識が頭に入っている。内容を見極められる目を既に持っている。という前提があってのことです。

まとめ

すみません、熱くなってちょっと話が脱線し過ぎた感がありますが……

個人的に、何かを本当にきちんと知りたいと思ったとき、試されるのは、忍耐と柔軟性だと思います。
人は、何かがわからなくて不安なとき、少しでも早くわかりやすい答えを見つけて安心したいと思います。
同時に、できることならば自分が持っている居心地のいい常識が、あまり揺さぶられたり壊されたりしないといいな、とも期待します。
だからこそ、確信に満ちた断定や、意外性はあるけど自分の既存の価値観の中でするりと納得できる解釈、耳ざわりのいい言葉に、多くの人が賛意を送ります。
「論文」や「書籍」がもつ活字の権威性、発信者の社会的地位などもこうしたとき、受取手に一層の安心感と納得感を与える、便利なアイコンとして使われやすい傾向にあります。

けれど、真実に向かう途上で見つかってくる断片たちは案外、地味で曖昧模糊としていたり、古い価値観や身体感覚では納得しにくかったりします。
だからこそ、現在わかっている範囲のことを、誠実に正確に語ろうとする程に、すっきりとした納得感が得られない不満感から、専門外の方からは却って「非科学的だ」「いい加減だ」と背を向けられてしまう場面を、しばしば目にします。
(地動説や相対性理論といった、現代科学の礎となる「常識」も、発表当初は中々世に受け入れられませんでしたよね)

何かを正しく理解するためには、時に、安易なわかりやすさに飛びつかない忍耐も必要です。

もしも目の前に、「論文」を振りかざして、すべてを分かったような顔をしている人がいたら。
私はたぶん少し腰を落として、その方の言葉に嘘や誤魔化しが潜んでいないか、いつもより慎重に耳を傾けることになると思います。
逆に、わからないことを「わからない」とはっきり述べてくれる人の話は、もう少しリラックスして聴けます。
本物の科学者は、自分が知っていることと知らないこと、現在解明されていることと解明されていないことを、きちんと線引きして提示できる人です。
ある分野の大家が、別の分野の若手研究者に教えを請う。
そんな光景も、科学の世界では決して珍しくないものです。

科学は「答え」ではなく「答え探し」です。
だからこそ、論文に書かれているものは決して、正解ではありません。
正解は常に、私たち自身が探し続けて、更新し続けていくものです。

私たちは、とても困難な時代にいるけれど。
だからこそ、公正さを忘れずに、オープンな心でいることが、いまを生き抜いていくために大切なのだと思います。
休み休みでも、少しずつでも、自分の足で歩み、考え続けていきましょう。
私も、小さな石でしかないかもしれないけれど、自分なりの何かを着実に、積み重ねていけたら良いな、と思っています。

長々とお付き合い下さり、ありがとうございました。