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水を抱いて生きるということ【映画『マザーウォーター』感想】

murr-ma.hatenablog.com
↑昨日のお豆腐投稿のあと、ふと、ある映画を思い出した。

松本佳奈 監督の『マザーウォーター』 。
(キャスティングの印象で、てっきり『かもめ食堂』荻上直子さんが監督だと思ってたら、違った。笑)

舞台はたぶん、京都。
(ただし、見覚えのあるロケ地たちは、実際にはそれぞれに結構離れているところだったので、リアルに京都の町を描いているというよりは、「京都のようなどこか」を切り取ってきたような趣)
お話の中心は3人の女性。
いつの間にか流れ着いたこの町で、小林聡美はウィスキーバーを、市川実日子はお豆腐やさんを、小泉今日子はカフェをそれぞれに営んでいる。
町の中を流れる疎水や川のほとりで、映画は各々の日々や、3人の日常がゆるやかに交差する様を切り取っていく。
そこにはしばしば他の登場人物たち(もたいまさこ光石研加瀬亮永山絢斗、そして「ポプラ」と呼ばれる男の子)も顔をのぞかせて、それぞれに違った色を添えていくのも、いい。

映画のはじめ、印象的なシーンがある。
疎水沿いをゆっくりあるいてきた もたいまさこ が、ハツミさん(市川実日子)のお豆腐やさんの前を通りかかる。
そこでお豆腐を一丁買った彼女は、店先のベンチを借りて、ちゃっかりお箸も出してもらって、できたてのお豆腐を味わう。
お醤油も何もつけず、生のままのお豆腐をひょい、と頬張って。
うん。いい顔。

大げさな演技や演出はなにもなく、ただそれだけ。
ただ、とてもおいしそう。
静かで、満ち足りていて。

このワンシーンで、既にこの映画は成功しているんじゃないだろうか、と。
そんなふうに思った記憶がある。

基本的に、大きなことは何も起きないお話だ。
物語らしく、設定や、あるかなきかのストーリーがないわけではないけれど、それが主題でないことは、きっと誰もがすぐに感じ取る。

この映画を包む時間は、ひたすらに静かで、凪いでいて、心にやわらかい。
けれど退屈は遠くて、むしろ、いつまでもここにいたいと思う。
それはきっと、そこが日常の「実の部分」とは、少し違ったところを写し撮った空間だからなのかもしれない。

日常の合間。
詰めていた息を、ほっと吐き出すような瞬間。
後回しにしていた物思いをそっと取り出して、不安も期待もそのままに、心を泳がせるような時間。

「スキマ時間」も上手に活用して、忙しなく隙なく走り抜けていく日々の中で、時折乾くように欲する「間」が、ここには程よく弛緩したまま横たわっている。
だから、ただ目と耳を委ねているそれだけで、とても呼吸が楽になる。
ささやかな日常の所作の一つひとつに目を奪われながら、深く、肺の底まで瑞々しい香りに満たされていく気がする。


タイトルにある「マザーウォーター」というのは、ウィスキーの仕込み水のことを言うらしい。
確かにこの映画で、あるかなきかの緩やかなストーリーよりもずっと力強く、物語を導き、登場人物たちを繋ぐのは、町を流れる、人々の内をそれぞれに流れる「水」だ。

ウィスキーも、お豆腐も、コーヒーも、豊かな水が与えてくれるもの。
それらのものと向き合う3人の中には、最初はひっそりと、しかし次第に確かな流れが生まれていく。
それは、見ている側にとっても、ささやかな励ましのようだった。

私にとって特に印象深かったのは、ハツミさん。
ハツミさん(市川実日子)は、お豆腐のような人だった。
真っ白で、四角くて、やわらかくて、至極ありふれて控えめな見た目なのに、口にしたときのやさしい味の奥には、しっかりとした芯がある。
実直さと、不器用さと、頑固さと、素直さとが、ぜんぶ一緒になったような、瑞々しい芯。
まるでいいお水と、いいお豆でできた、いいお豆腐みたいな。
むずかしい言葉は何にも出てこなくて、ただ、好きだなぁ、と思った。


あの頃は、そういういいものは、ただ与えられるのを待つしかないように思っていた。
自然というのはそういう、自分がどうこうできないものなんだと思っていた。
でもいまは、そういった自然を、自分が壊しも、守りもし得るものなんだと感じている。

心を安らわせる自然も。
あたたかな食卓も、人とのつながりも。
色んなかたちの努力があって、はじめて守ることができるものなんだろう。

その事実は、少なからず胸に痛いけれど。

きっと私はこれからも、時折この映画を見て、心を整え直すんだと思う。
映し出された景色の中で、深く息をついて、力を得て。
いつしか水を与えられた草花のように、自然と背筋が伸び、前を向く自分になれる。
そういう映画だ。