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そもそもの出発点は、身軽な生活への憧れだった。
小さい頃から片付けが苦手で、物持ちだったわたしは、人生の少なからぬ時間を、モノに振り回されて過ごしてきた。
何かをする毎に、必要なモノをここでもない、あそこでもないと探し回り。
散らかった机に周期的にキレる母親に、引き出しの中身をぶちまけられ、泣きながら片付けて。
モノであふれた部屋に気力も奪い取られ、「片付けなきゃ」と思いながら、行動に移せないまま鬱々と日々を過ごし。
そんな風に学生時代を過ごし、けれど働きはじめて、転勤を繰り返すうちに、段々と風向きが変わっていった。引越しは、わたしにモノと向き合う機会を、モノを手放す機会を与えてくれた。
開かれることのなかった段ボール箱。
自分一人で動かせない、大き過ぎる家具。
持ってきたのに使わなかったもの。
収納したきり忘れていたモノ。
そういったものを段々と手放していって、すると自然に、買い物にも変化が表れた。
モノを手放すことには、手間暇や罪悪感が伴う。
その上、捨て方にも困ってあれこれ調べまわったり、お金がかかったり。
そんな一筋縄ではいかない処分を経験してからは、モノを買うときに
「使えなくなったときは、どう処分することになるんだろう?」
と考えるようになった。
当たり前のように、無駄な買い物は減った。
比例してゴミもぐっと減った。
燃えるゴミは、1週間かけても5L入りの袋がまだスカスカ。時には、小さな小さなゴミ袋にその週の生ゴミだけを詰めて、そっと収集に出す。
そういうことが、次第に当たり前になっていった。
で、めでたしめでたし。
……とはならなかった。
月日が経ち、燃えるゴミの少なさに慣れるにつれ、プラごみの多さが気になるようになった。
ひとり暮らし。都市部住まい。自炊時々外食。
そんなわたしの1週間のプラごみ=15L袋にいっぱいいっぱい。
これってどうなんだ?
思ったときには、無性に苛立たしいようなもどかしいような気持ちが、胸を満たしていた。
ゴミ袋の中のプラ容器たちは、ペラペラの包装フィルムだけでなく、1回で使い捨ててしまうのはもったいないような、しっかりとした作りの立派な容器もたくさんあった。
それなりの資源と、エネルギーを使って作られたものが、こんなにも短期間で消費されて、するすると目の前を通り過ぎていく。
それって、とてももったいないことだ。
そのことにずっと無感覚でいられた自分にめまいを覚えながら、ぐるぐると考えた。
どうしたらいいんだろう?
思って、本を漁って。
引き寄せられるように手を伸ばしたのが、『ゼロ・ウェイスト・ホーム』だった。